テーブルに乗ったのは、この家にある中でも最大の皿だった。二人分の料理を乗せるには大きすぎるこの皿が使われるのは、友人と彼の上官が夕食を食べに来たとき以来だ。一度はフライされたマッシュポテトの山が、二度目は大量のパスタが盛られたと記憶している。
 どちらも大皿に盛ってよそう類の料理ではないと思うのだが、こうすることが大事なのだと前者は彼の上官が、後者は僕の友人が主張した。パスタの山の中でフォークがぶつかる音は不快なはずなのに、友人は普段の食の細さが嘘のような勢いで彼の友人とパスタを奪いあっていた。


 だが、この家に人を招くことは稀だ。使い道のない皿をそれでも所有し続ける彼の心理を、そのときもこれまでも理解することはできなかった。
 今、再び皿に盛られたマッシュポテトとグレービーソースに対面し、その疑問がようやく解けた気がする。添えられたフランスパンと格闘しながら、マッシュポテト越しに見える同じ顔をした二人の男がその答えだった。
 ボイルしたソーセージや生ハムを肴に、琥珀より更に濃い色のビールとクリームのような泡に口をつける、その仕草は十年ぶりに再会したとはとても思えないほど自然で、毎晩夕食を共にして、ここで暮らしているのはこの二人なのだとすら思える。
 別の皿に、やはり山盛りにされたフィッシュフライの山から、できるだけビネガーのかかっていないものを引きずり出して一口かじる。歯茎に食い込む衣の固さと、染み出す油、ぱさついた白身魚は慣れた味のはずなのにどこかよそよそしかった。まるで、ロックオンに連れられて初めてあの店に行ったときのようだ。そういえば、あのとき初めて、ニールという男を知った。
 ことん、とテーブルが鳴り、俯いていた視線を向けるとサラダとマッシュポテトが乗った小皿がある。差し出した人物にしては控え目に盛られた量がありがたかった。
「兄さん、ティエリアちゃんあんま食べてないけど」
 小皿に添えられた指が視界の端に消えていこうとする直前、ロックオンと同じ声がした。なのにひどく居心地を悪くさせる声だった。目の前の皿を与えられたことを見咎められている気さえする。それを証明するかのように、視界から指が引いていった。
「ちゃんって言うな。時間かければこれで結構食べるんだぜ」
「その割りに腰…いや何でもない」
 言いよどんだ彼を、僕と同様ロックオンも訝しんだらしい。何だよ、と問い詰めるとライルは苦笑と脂汗を浮かべる。不審は深まるばかりだが、ロックオンは瓶から新たなビールを注いだ。
「言い掛けといて止めんなよ」
 テーブルの下で足を蹴る気配がする。それがこの問答の終わりを告げているのだと、何となくわかった。
 彼が弟の足を蹴ったのと同じ空間で、膝の上で手を握り締める。このとき僕はそこに彼の手のひらが重なることを期待していたのだが、小さな皿と料理以外は疎外感しか与えられることはなかった。



「じゃ、そろそろ失礼するかな」
 食後のコーヒーがカップの底で乾き始めた頃、来客はそう言って立ち上がった。意外でもあったが、それ以上に背中の辺りで何かがぷつりと切れて緩むのを感じる。座り心地の良すぎるソファに身体が沈みそうになるのを辛うじて押し留める僕の隣で、来客と同じ顔をした家主は驚きを隠せないでいた。
「なんで」
「なんでってなんで?」
 ジャケットとネクタイをひとまとめに抱えたライルも意外そうな顔をして見せたが、それが八割方意識して作ったものだとは手に見てとれた。
「泊まっていけばいいだろう」
「兄さんならそう言うと思ったけどさ」
 ライルに合わせて立ち上がったロックオンの肩越しに、視線が向けられる。ロックオンといるとき他人から向けられることが多い、好奇のもの。大抵それは意に介することはない自分が、今は居心地の悪さを感じているのが痛いほどわかった。
「新婚の兄貴を邪魔する気はないんだ」
「ライル」
「モーテルにでも泊まって、また明日来るよ。明日からはアパート借りるかな」
 ロックオンの機嫌が緊迫していくのを感じる。自分がそうなる理由はないはずなのに身体が竦んだ。なのに理由がある人物は笑っているだけだ。ロックオンと同じで、相手が真剣であるほどそれを受け流してしまう意図の笑顔だった。
「はるばる来た弟を、追い出すような俺だと思ってんのか」
 腕を組んで言い放つロックオンにライルは苦笑する。苦笑しか、しなかった。
 このとき自分がそれを望んでいないことはわかりきっていた。だが彼が望んでいることも明白だった。だから、こう告げる。そうするしかなかった。
「泊まっていけばいい」
 声と一緒に心臓の音が飛び出さなかったか心配になる。だが声は心拍数に比べればはるかに平坦に二人の間に響いた。意外そうな二つの同じ顔のうち一つが、やがて笑みを浮かべる。それが贅沢なのかささやかなのか判別し難い、私の報酬なのだろう。
「2対1。決まりな」
「あー、いや、うん、美人さんの言うことには基本従うんだけどさ」
 肩に回される腕と髪を掻き撫でる手は温かかったが、自分に向けたものではないような気がした。



 一向に訪れる睡魔を待つのに疲れて、何度目かの寝返りを打つ。目の前に広がったシーツの波に、その広さにも狭さにも慣れたはずのベッドがやけに広く感じた。先ほどまで隣に鎮座していたクマでも置けば、寒々しさは和らぐだろうか。それとも手持ち無沙汰な自分は慰められるだろうか。
 しかしそれを部屋の片隅に置いたのは自分だった。あまりに大きなクマのぬいぐるみは、そこにあると彼の寝るスペースを奪ってしまう。あるいは、奪われるのは自分の寝場所かもしれない、と埒もない考えが浮かんだ。


「美人の誘いを断る気はないんだけどさ、場所ある?」
 多数決に負けたライルは、物理的な側面からの反撃を試みた。僕の知る限り彼はこの家のリビングとトイレくらいにしか入っていないはずだが、来客用の皿はあってもベッドはないことを見抜いているようだった。
「俺がソファで寝るから」
「じゃティエリアちゃんと寝ていいの?」
「だからちゃんって言うな。もちろん却下」
 彼以外の人間と同衾することは断固拒否だったのでロックオンの本末転倒はありがたく享受し、弟とはいえ客をソファに追いやるという考えがないらしい彼に代案を提示する。
「私がソファで寝る。二人でベッドを使えばいい」
 思っていたよりも舌が早く動いて戸惑った。こんなことは早く片付けたいとでもいうような急ぎ方で言い終えてから、咽喉の下の方がずん、と重くなる。
「いや、ティエリアそれは」
「美人をベッドから追い出す気もないんだな、オレは」
 対立していたはずなのに、妙なところで同意する。これが兄弟と、家族というものなのだろうか。しかしライルの明瞭で軽快な言葉には、言いよどんだロックオンのそれより遥かに排斥の意思をはらんでいた。
「兄さんの恋人寝取るのも、兄さんとティエリアちゃんの愛の巣にお邪魔するのも勘弁だ。いくら双子でも残り香なんて嗅ぎたくないぜ」
「ライル」
 彼の意図として、意識して下卑た物言いをしているのは理解できたが、嫌悪が収束していくのはどうしようもない。それを断ち切ったのは、周波数まで同じに違いないもう一つの声だった。
「……悪かった」
 その声でその声音で名前を呼ばれると、僕はどうしようもなく身体が竦む。それはライルも同じなのだと知り、自分の意識の先端がさらりと削れて丸くなる気がした。両手を挙げて降伏を示す弟に、ロックオンは顎をしゃくる。
「謝るよ。ごめん、ティエリア」
 促された謝罪が自分よりも彼をおもんばかったものであることはわかった。だがその分だけ上辺のものではなかったし、彼の心情を汲む人間と敵対する気は分子ほどもない。小さく頷くとライル・ディランディは笑い、ロックオンはそっと背中に触れてくれた。


 かくしてライルはこの家の客としてソファで眠ることが決定したのだが、そのあともグラスと瓶を取り出した二人に、僕は先に休むと告げた。少しも眠くなどないのにそうした理由が、再会したばかりの兄弟を気遣ったというものであればこんなにも眠れないことに苦しさを覚えなかったろう。
 アナログ時計の秒針がやけに耳につく。デジタルにしよう主張すれば良かった、と一年近く前の自分と彼に毒づいた。
 ぎしり、とドアの向こうで床が軋む音がして、鼓動が跳ね上がる。暗さに慣れきった目が時計の文字盤を読み取り、彼らも歓談を終えて就寝する時間になっていたことを知った。
 ドアの開く音がする。ロックオンがこちらを気遣い、明かりもつけずに服を脱いでいる影がまざまざと見えて、彼が入ってくる前に寝返りを打たなかった自分に舌打ちをしたくなった。息遣いを押し殺し、眼球運動を抑えて眠っているように見せかけても、顔が見えてしまえば彼は気づいてしまうだろう。
 だが、額に彼のアルコールを含んだ吐息を感じても、彼が話しかけてくることはなく、僕の下手な擬態を笑うこともなかった。慣れた手つきで髪を撫でて引き寄せられる。首の下に滑り込んだ腕がそのまま頭の下に敷かれ、ジーンズを脱ぎ捨てた彼の素肌を脛の辺りに感じても、彼が気づく気配はなかった。
 やがてぎこちない僕のとは違う、安らかな寝息が頬を撫で始める。そっと強張りかけていた瞼を開けると、寝息と同じ静かな寝顔が見えた。暗闇の中で青く黒く浮かび上がる輪郭を、彼の体温で温まり始めたベッドから差し出した指でなぞる。
 それで彼が起きないはずがないのに、指の下の瞼は沈黙を続け、吐息の強さも変わらない。深く染み込んだアルコールのせいばかりではない眠りだった。昨夜も彼は酷く酔っていた。酔いの深さだけ傷ついて、私を傷つけようとした。
 鼻先をくすぐる匂いはそのときと同じなのに、彼はまるで奇跡みたいに穏やかに眠っている。近頃はこちらが微かに身じろぎするたびに、うっすら開いた瞼の隙間から緑の瞳が覗いていたのに。
 浅い眠りの中で彼が溺れるように喘いでいたのを知っていた。時折こぼれる呻き声に顔を上げれば、すぐに覚醒して微笑む彼に何もできずにいた。彼がアルコールと自虐で吐露するまで何もできなかった。
 喜んでいいはずなのに、嬉しいはずなのに、どうしようもなく息苦しい。穏やかな吐息に撫でられるたびに胸が引き絞られるように痛い。
 それでもきっと良かったのだ。良いことに違いない。彼はいつ以来か穏やかに眠り、この家には彼が熱望してやまなかった家族がいて、私の傍にいてくれる。
 哀しむことなど何もない。淋しいことなど、なにひとつ。