中尉になった。
 なってしまったのだ。理由というのも、先日の派兵で功績を挙げたため、ということらしい。
 俺自身の酷く個人的な動機が、評価され地位に繋がるというのも納得しがたいものがあったが、家人がつべこべ言わず貰っておけと言うのでありがたく頂戴することにした。
 しかし、何が嬉しいのか俺以上に喜んだ隊長が、ことあるごとに中尉中尉と呼ぶのと、ジョシュア・エドワーズ少尉がことあるごとにに絡んでくる以外にはさして何も変わらない。そんな俺の専らの楽しみは月末の給料だ。派兵諸々で色がついたそれで、家人と一緒に何か贅沢なことをしようと密かに考えている。
「近ごろの我が隊はめでたいことずくめだ!!」
 ムードメーカー、というよりもムードクラッシャーと喩えた方が正しいだろう、我が隊の誇るべき隊長で、俺と同時に昇進なさったグラハム・エーカー上級大尉殿が、上機嫌に宣言した。
 また始まった、と冷めた目で視線だけ雑誌から外したのは、ビリー・カタギリ技術顧問。何やら最近発表した論文が学会で一大センセーショナルを引き起こしたらしく、少し前まで取材の嵐だった。
 今彼が手にしている雑誌にも、白いスーツとサムライを彷彿させるきっちりとしたポニーテールの出で立ちの同一人物が、協力してくれた友人に深く感謝をしたいとコメントしている。あらゆる雑誌にそのコメントを残すくせに、どんなしつこいインタビュアーにも、その友人についての詳細を語ろうとはしない。その友人のたっての希望だそうだ。
 その雑誌の知的な変人めいたたたずまいから、知性を差し引いた姿で乱暴に雑誌を置く。相変わらず眼下のくまは取れないままで、よれた白衣とつま先に引っかけただけのサンダルが彼の限界が近いことを暗に示していた。大きな演習や派兵があった後、データ収集等で奔走するのは技術班のカタギリさんたちだ。いつも俺たちのために身を粉にして働いてくれる彼らには本当に頭が下がる。
 だから、そんな彼らの貴重な休憩時間を割く気は毛頭無い。というのに、上機嫌な上官は一向に空気を読む気配すら見せない。カタギリさんが隣であっちへ行けというより今すぐ死ねとでも言わんばかりの不穏な視線を送っているというのに、だ。その図太さには呆れを通り越して敬意すら払いたくなる。
「何だか分かるかね、中尉」
 呼ばれ慣れない階級名に一瞬反応が遅れた。耳に触れる響きに少し面はゆい気持ちになる。あまりひけらかすのも躊躇われたので、ここはとりあえず周りを立てておくことにした。
「昇進おめでとうございます、上級大尉」
「うむ」
「ダリルも結婚しましたね」
「めでたいな」
「カタギリさんも何か賞とったみたいだし」
「実にめでたい」
「…勝手に僕を君たちの隊に入れないで欲しいな」
 カタギリさんの抗議の声はさらりと黙殺された。そして沈黙。やはり言わなければならないのか、と思い知らされ自然と頬が熱くなる。昇進すると聞いたときは躊躇いもあったが、実際になってみるとそう悪くはない。最近はむしろ嬉しいとすら思えるようになった。
「俺が昇進出来たのは、隊長のお陰です…」
 頬を赤らめて頭をかき、そう告げる。しかし隊長は表情ひとつ変えず、軽く頷いてみせただけだった。それでもない。とすると、ひどく個人的なことしか思いつかない。家人が毎日食事を作ってくれるようになったとか、オムライスが結構うまかったとか。
 また沈黙。腕を組み顎を引き考える仕草をする隊長の面差しは、実に端正だ。カタギリさんは実にどうでもよさそうにそれを眺めていて、俺はそんな二人を眺めては考えを巡らせる。
 しかしそれも長くは続かない。隊長は我慢弱い性格だった。たっぷり三十秒その仕草をした後に、焦れたように眉間に皺を寄せ、口を開く。正直なところ、もうさっぱり出てこなかったので、彼の我慢弱さに安堵した。
「…中尉、今日は何日だ」
「は、9月10日であります」
 敬礼してそう答える。しかしながらその日付に覚えがない。強いて言うなら、大昔の変態小説家の誕生日だったような気がしないでもないが、確証がないし、第一隊長がそんなことを話題に出すとも思えなかった。端正な顔に刻まれた眉間の皺が、ますます深くなっていく。
「今日は何の日か、きみなら分かるだろう? カタギリ」
「……………世界自殺防止の日?」
 カタギリさんがやっぱり、限りなくどうでもよさそうにそう答える。先ほどまで上機嫌だった隊長の顔には、うっすら汗が滲んでいる。もしかしたら目尻に浮かんでいるものは汗ではなく涙かもしれない。なんだかとてつもない地雷を踏んでしまった予感がした。思考回路がフル回転するが、何も出てこないまま焦りだけがつのる。そうしているうちに、我慢の限界に達した隊長が思いきり壁をぐーで殴って、全世界に宣言した。本人にそのつもりはなかったのかもしれないが、それくらいの、声量で言いはなったのだ。

「今日は、私の誕生日だッッッッッ!!!!!」

 忘れていた、というより知らなかった。考えたところで出てくる筈もなかった。仕方がなかった。だからそんな泣きそうな顔で、人でなしというような目で訴えないで欲しい。責めるなら、隣でどこまでもどうでもよさそうに、自分の載った雑誌に視線を戻した親友を責めて欲しい。彼は絶対に知っていただろうから。知っていてはぐらかしただろうから。そういう人だ。
「朝から、どんなサプライズが来るかと、楽しみにしていたのに……」
「わかりました、わかりましたから、泣かないでください隊長! ほら、食堂で俺とテーブルいっぱいのマッシュポテト食べましょう! おごりますから、おごりますから!」
「それよりもフラッグでケーキ入刀がしたい」
 甘い顔をした途端、けろりと表情を取り戻して真顔で訴えられる。一瞬でも慌てた俺が馬鹿だった。雑誌から視線を外さない彼の親友はやはり賢明だった。そして表情ひとつ変えず、にべもなく告げる。
「却下」
「なんと!」
 電波的な願望が棄却されたのをそんなに驚かないで欲しい。本気でするつもりだったのかと思い、思わず口許が引きつった。しかし、更に恐ろしい発言が場を凍り付かせた。
「今日のためにフラッグを飾り付けておいた私の努力をどうしてくれよう!」
 サプライズ、というものは本人をサプライズするものであって、少なくとも周りがサプライズするのは間違っている。と、俺は思う。しかも今はサプライズを通り越して空気が果てしなく重い。だって、みるみるうちにカタギリさんの顔から表情が消えていくから。
 一体どんな手段を使ったのかは知らないが、今頃重病人のごとく沢山のコードに繋がれてデータを収集中の、言うなれば戦場を生き抜き全てを見てきた最高機密の一つであるフラッグを、飾り付けたという。質の悪いことに、グラハム・エーカーという男は絶対に嘘は言わない。真実のみ口にする。夢であればいいと、心の底から祈った。それが虚しいものだと知って。
 しかし、最も祈りたいのは間違いなくカタギリさんだろう。こんなことをされて、今までカタギリさんたちが不眠不休で取ったデータが無事で済むとは思えない。俺は素人だが、断言できる。グラハム・エーカーという男をそれなりに知っているから。況や、専門家であり、グラハム・エーカーの親友であるカタギリさんをや。
 隊長に振り回される同志としての立場と、忠実なる部下としての立場のどちらを選ぶべきか悩み――前触れ無く投げられたサンダルが視界に入ったとき、反射的に後者を選んだ。何も分かって居なさそうな隊長を庇い、押し倒す。後頭部にすこんとサンダルがヒットした。サンダルで良かったと思った。しかし、安堵する間もなく、死刑宣告のような穏やかではない言葉が降ってくる。
「ふふ、もういいじゃないか」
 俺の身体の下で、隊長が限りなく純粋な目でこちらを見つめる。恐らく、いまだ状況は飲み込めていまい。その透き通った双眸を、俺はじっと覗き込んでいた。そのアイスブルーの美しさに、いっそ見とれていたかった。背中にずきずきと突き刺さる恐怖をはぐらかすために。
「誕生日が命日ってのも、悪くないと思うよ? グラハム」
「……逃げてください隊長ォォッ!!」
 叫ぶと同時に隊長の身体をすくい取り、抱え込んで駆けだした。俺たちが倒れていたところに、一瞬遅れて椅子が降ってくる。徹夜続きの、疲労にまみれた身体のどこに一体そんな力が隠れていたのか分からない。恐怖に負けて振り返ってしまった自分を呪った。
 凍り付く俺をよそに、隊長はちゃっかりと俺の首に手を回し、体勢を整えて、今からベッドルームにでも行きそうな形で収まっている。反射的にそれに応えて腕を動かしてしまってから、その重さに驚く。比較対象が華奢な家人であるのもさることながら、隊長は小柄な外見に反して意外なほどに重い。骨格や筋肉がしっかりしているせいだろう。
 この重さを抱えて走れるのか? ――否、走るしかあるまい。
 死にたくなければ、走るしかないのだ。だって、背後から貫いてくる殺気は手加減してくれる様子が見えないのだから。
「ああ、ロックオンはそっちなんだ?」
 恐い恐い恐い。許されるなら今すぐ腕の中でぐねぐねに絡みついて首にキスをしている物体を引き渡してやりたい。しかしそれは身体が許してくれない。演習や実戦で培った軍人としての自分が拒否している。最悪だ。
「じゃあいいや。……君もやっちゃうよ」
 起伏のない声に背筋が寒くなる。目覚めたように、固まっていた身体が動き出した。生存本能が、成人男性を抱えながらもありえない早さで足を動かす。腕の中で子どものように楽しそうに笑い声をあげる隊長が心底憎らしい。基地の長い廊下を疾走する。談笑していたダリルとハワードの会話が一時停止されて、こちらをじっと見つめる。皮肉げな笑いを浮かべていたジョシュアが、呆然とこちらを見やる。しかしそんなものに構ってなどいられない。後ろの気配がじわりじわりと近づいてくる。少なくともこちらは肉体労働専門であり、向こうは頭脳労働のエキスパートなのに、一向に距離が縮まる気配が見えない。こんなに全力で走っているのに!
 腕の中で後ろを眺めていた隊長が、ほう、とため息を吐き目を見開く。そして耳許で囁かれた言葉に、得体の知れない疑問が氷解した。しかしそれは答えを与えてくれたけれども、同時にさらなる恐怖も与えてくれた。
「セグウェイか。前時代の遺物がよくも残っていたものだ」
 ――というより、技術顧問は乗れたんですね。
 舌が自由になるなら、そう呟いていた。だが、今は呼吸をするので忙しい。地雷を踏まずに済んだのは幸福なのか、それどころではない現況を恨むべきなのか。迷っているうちに、タイヤの音が少しずつ近くなっていく。
 絶対に負けてはならず、退いてはならず、諦めてはならない。ユニオンに入隊するまでに出会った何人かの鬼教官の言葉が不意に蘇った。徐々に思考がクリアになっていく。足が自動的に進む。壊れるんじゃないかという勢いで進む。それだけしか出来ない。
「楽しいなぁ、ロックオン!!」
「……そいつぁ、よかった…っす」
 腕の中でひどく楽しそうにしている隊長に、息も絶え絶えに応えた。自分の感じている恐怖と、酷く離れたところにいるこの人が羨ましかった。すべての元凶であるにも関わらず、ここまで楽しんでいられる人が。それでこそ隊長、という気がしないでもない。

 腕が限界を訴えて震える。筋肉が放り出したいと叫ぶ。しかしそのたびに蘇る。派兵後の休暇が終わって、基地に出てきた俺に、隊長が言ったことを。
「もう、戻ってこないと思っていた」
 何故、と問いかけることは白々しいと思った。実際、派兵から戻った当時はそう思っていた。そんな俺に気を遣って、強引に休暇を取らせたのが隊長であることも知っている。そうして過ごした時間の中で、俺はゆっくりと救われていった。
「戻ってきてくれて、良かった。きみは、私の大切な部下だから」
 そう言って少年のように笑う。その顔を見たとき、戻って良かったと素直に思った。ここに、俺の居場所は在るのだ。まだ失えない、失いたくない大切な居場所が。
 中尉の昇進より何倍もその言葉が嬉しかった。まだグラハム・エーカーの部下でいられることが嬉しかった。彼が迎えてくれることが、嬉しかった。
 だから、どれだけ煩わしくとも、このクソ重い上官を放り出す事なんて出来ない。絶対に負けてはならず、退いてはならず、諦めてはならない。倒れるまで走る。どこまでも走る。

 何度目か分からない曲がり角を曲がったとき、少し後ろで大きな音がした。きっとセグウェイが倒れた音だ。そう願いたい。違ったら哀しいので、今は振り向かずに走る。唯ただ走る。
「よく走った。それでこそ私の部下だ!」
 足を止めないでいると、不意に唇に触れるだけのキスをされた。きっとこれは勝利のキスだ。そういうことにしておこう。断じてこれは、浮気ではない。
 気が抜けて白んでいく意識の中、最後の最後で家人に言い訳をした。もう一歩も動かせないというところまで、足を進めながら。