6月21日。よく晴れた今日は、全国的に日曜日である。
 日曜日は、ティエリアと昨晩の疲れを癒し睦み合ったあと、いい加減暑いと不機嫌になる前にベッドから出て朝食の支度を始めるのが日常だった。最近は弟が朝食を作ってくれるので、コンソメとベーコンの匂いと、ティエリアの体温を感じながらまどろむこともできる。仕事の疲れも忘れるような至福の朝だ。
 しかし悲しいかな、俺はあと数十分でこの家を後にしなければならない。よく晴れた朝、皆で仲良くサンドイッチを持ってピクニックというわけでもなく、単なる休日出勤だった。
 代休はしっかり確保したとはいえ、いつもの日曜日の幸福を享受できないのは残念で仕方ない。ライルが作ったベーコンエッグをかじりながら思わずため息をつくと、そんな顔すんなよ、とライルに笑いながら言われた。そのいたずらっぽい含みのある表情を怪訝に思ったけれど、相手はそれ以上何も言わなかった。彼なりに俺を励まそうとしてくれたのかもしれない。
 気遣いに口の端をつり上げながらシャツに腕を通す。最近おろしたばかりのシャツは、夏用の生地のおかげで涼しくて気持ちがいい。ティエリアの試行錯誤の結果、若干皺が寄ってしまったけれど、それでも洗剤の匂いが心地よく鼻先を抜けた。とてもさわやかな匂いが、強く―――。
 思わず、シャツの襟を鼻先に押し当てた。
「……すすいでねえな、あいつ」
 全自動だから洗濯物をつめてスイッチを押せばそれで終わりだと何度も言っているのに、電子の申し子の自負なのか、毎回取扱説明書を片手にあれこれと機能を試したがる。そのお陰で、おそらくティエリアは俺の何倍も我が家の洗濯機に詳しくなっている。そのせいで、まともに洗濯ができた試しがない。
「ロックオン、」
 ため息をついたのと、ドアがノックされたのは同時だった。あまりのタイミングの良さに驚かされる。折角努力をしている相手にあまり口うるさく言うのも躊躇われたが、こういうものは第三者の指摘がなければ成長しない。かわいいからと言って甘やかすだけが愛情ではないのだ、と誰に向けてか分からず言い訳をしている時点で、俺はすでに負けているのだが。
「着替えは終わっただろうか」
「そのことなんだけどな、ティエリア。お前が洗ってくれたシャツ―――」
 目の前のドアが開いたので、俺はシャツの裾を持ち上げながら慎重に言葉を選ぼうとしていた。
 ドアが完全に開ききったとき、ティエリアの紅茶色の目も見開かれた。理由もわからず、唐突に凍り付いた相手にこちらの言葉もその先を続けられず宙に浮く。裾を持ち上げたせいで覗いたへその辺りが寒い。
「どうした、ティエリア?」
「……なんだその格好は」
 低く、ひくく感情を押し殺してつぶやかれた声。色の失せた白い肌。この世の終わりのような表情をしていた。その変化についていくこともできず、とりあえず空疎でも笑ってみせて、応える。やはりへそが寒い。洗剤臭くもある。
「何って、ポロシャツだけど」
「どうしていつもと違う格好をしている!」
「クールビズだよ。あ、お前はクールビズとか知らないかな、夏になったらさ…」
「そんなことはどうでもいい!」
 俺の言葉を強引に遮り、襟首を掴んでくる。乱暴な所作に対応できずされるがままになっていると、指が白くなるまでポロシャツの生地を強く握りしめてきた。近づいた顔は気の毒なほど青ざめていて、荒げた言葉は怒りではなく混乱故なのだと知る。
 足下に、ぼとっと何かが落ちる音がした。襟を拘束されたまま不器用に視線を落とすと、視界の端に淡い紫色のひものようなものが見える。
 一瞬、それが何だかわからずに目を凝らした。しかしそうする必要もなく、ティエリアのわなないた唇から言葉が続けられた。上擦った不安定な声が痛々しく響く。

「これではネクタイが締められないだろう…!!」





 ティエリアのホビールームの掃除をしていたライルは、とうに気づいていたらしい。今にも崩れそうな雑誌の山には、色とりどりの付箋が貼られていて―――そこにはもれなく、6月21日 Father's Dayと記されていた。
 ゴルフウェアやパソコンの周辺機器といった趣味的なものから、一泊二日の湖畔のホテル、果ては別荘なんてものも候補に挙がっていたらしい。下手をすれば車のディーラーのところにまで相談に行きかねなかったティエリアを見かねて、順当なところに持っていった我が弟の賢明さには頭が下がる。
「ネクタイでもプレゼントして、それを締めてやればすげえ喜ぶって言ったんだけど。クールビズは盲点だったわ…」
 そう。唯、時期が悪かっただけ。それだけなのだ。
 ライルがため息をつきながら、無惨に床に落ちていたネクタイを拾い上げる。今となっては薄紫の紐だったが、相談に乗っていたライル曰く「家電を2個買ってお釣りが来るくらいの値段」のものらしい。そこまでしなくとも、と思うが、家に車が一台増えたかもしれないことを考えれば、無難に済んだといえよう。それも全て、クールビズがなければうまくいっただろうに。
「…っく、エコなど経済界の欺瞞だ…滅びればいい」
 洗剤の溶け残ったポロシャツにじっとりと涙を吸わせながら、ティエリアが嗚咽混じりに呟いた。ティエリアが顔を押しつけている胸の辺りはずぶぬれになってしまって、もう着てはいけないだろう。ティエリアの目尻を指で拭ってやると、まだなまぬるい液体に触れる気配があった。もう少しだけ、このままでいることにする。
「兄さんがいないときに、二人で練習したんだぜ? 何度首を締められたことか…」
「黙っていろ!」
 怒鳴るのはライルなのに何故か俺に爪を立てる。ポロシャツの生地を引き裂かんばかりに掻かれて、布越しに痛みが走った。そういえばしばらく爪を切ってやっていない。背中に痕ができるわけだ。
「誕生日に続き父の日も失敗してしまった…僕に、あなたの家族としての資格は……」
「バカなこと言いなさんな。ほら、泣きやめって」
 通りのいい髪を指で梳いて、頭を撫でつけてやる。ひくっ、と小さく嗚咽をもらしたあと、ポロシャツの裾で容赦なく鼻をかんでみせた。俺への当てつけか経済界への当てつけかは知らないが、ポロシャツで鼻なんてかんだせいで、鼻の下が赤くなってしまっているのがおかしい。
「一生懸命練習してくれたんだよな、ティエリア」
「本ッ当にな! 知っての通り不器用だからさ、毎日がんばって…」
「そのうるさい口をいい加減閉じろ」
 淡々とした口調で遮るのがかえっておかしかったのか、ライルがくつくつと喉で笑った。その態度がティエリアの怒りを買ったのか、そばにあったクッションをライルの方へ投げつける。ふざけて逃げ出すライルに、追いかけるティエリア。いつの間にか喧嘩ができるくらい、仲良くなっていたらしい。
 にぎやかな光景に顔をほころばせた後、涙と鼻水でじっとりと濡れたポロシャツへ向き直る。涼しげな生地も惜しくはあるが、この格好で出勤するわけにもいくまい。
「ティエリア、」
 ライルがテーブルの上に置いたネクタイを手に取り、声をかける。ライルの臑を狙って蹴りあげていたティエリアが、ぴたりと動きを止めた。







 ロックオンがスーツで出勤してきたことは、基地内でちょっとした噂になっていた。こんなことが噂になるくらいだから、世界は平和ですばらしい。日焼け止めを塗りながら、部下たちの騒ぐ声を聞いていた。そういう部下も皆そろってポロシャツを着ている。今日、基地内でスーツを着ている人間は、数えるほどしかいないだろう。
「どうしたんだい?」
 その流れに敢えて逆らってみせた勇者に、遅めのモーニングコーヒーを差し出す。周りの奇異の視線を受けても、ロックオンは全く意に介することなく、むしろ誇らしげだった。この空気の読めなさは少し上官に似ていて複雑な気持ちにさせる。
「カタギリさん…俺はやりますよ、今日」
「それはそれは。楽しみだねえ」
 その格好で?と問いかけるのは敢えてやめておいた。どちらにせよ、参加する気があるならばそれでいいのだ。服装がポロシャツだろうが、スーツだろうが、ルールに関わりはない。
「俺には家族がついていますから」
 そう言って、胸元をさりげなくアピールしてみせる。そこに収まっている高そうなネクタイを見て、なんとなく事情を悟った。そして今日も相変わらずの親馬鹿ぶりを示してくれる彼に、先ほどとは別の意味で複雑な気持ちになった。それが数時間後には砂埃で汚れるかもしれないと、分かっているのだろうか、彼は。

 指摘すべきかすまいか迷っている間に、スピーカーから安っぽい電子音が流れ出す。イベントごとのときに必ずテーマソングとして使われるこの曲は、発案者がご丁寧にも作詞作曲をしているというあまり嬉しくない手のかけられ方をしていた。この曲を聞くたびに、悪夢が上塗りされていくような気がするので、僕個人としてはあまり聞きたくないのだが、あの男とつきあいを続ける限り、きっと一生ついて回るのだと思うと気が遠くなる。
「諸君!! フラッグファイターの諸君!! 本日は、休日出勤ご苦労だった!!!」
 スピーカーから、無駄に明朗な声が流れだし、わあっとその場が湧いた。大の男が一斉に吼えるものだから、地面が揺らぐような錯覚さえ受ける。全くもって暑苦しい。
「しかし、これからが本番だ! これより開会宣言を行う!!」
 すっくと隣にいたロックオンが立ち上がる。格好こそ細身のスーツという、どこぞのサラリーマンのような姿だが、その目は真剣そのもの。まごうことなくフラッグファイターの表情だった。
 どれもこれもがちぐはぐすぎて、才能の無駄遣い、という言葉が頭をよぎる。もっと正しい使い道はあるだろうと思うのだが、このズレがどうしようもなく、この軍の姿を表しているような気もするから救いようがなかった。

「第一回・ユニオン軍球技大会! プレイボール!」

 エースパイロットの主導でフラッグを駆る男どもが全力で球を追いかけ、期待のホープがスーツで家族のために豪速球を投げる。なんだか、想像できないししたくない光景だ。
 何はなくとも、僕は自分のためにこの大会を適当にサボるための手段を高じねばならない。まずはテニスの審判辺りを勝ち取るために、テニス経験者だという過去をねつ造することから始めようと思った。