情欲が引いた後の凪のような倦怠感。疲れ切って泥のように眠るティエリアの髪を、俺は無心で撫でていた。汗で貼りついた前髪を指先で剥がし、そっとかき分けて白い額を空気に晒す。すると閉ざされていた瞼がぴくりと震えた。二度三度、痙攣するように動いてから、ゆっくりと開かれる。
 瞳の赤は淀んでいて、焦点が合っていない。繰り返される瞬きで、濃い睫毛がパシパシと音を立てた。徐々に焦点が合い、瞳は俺を捉える。
「どっか、痛いとこないか?」
 優しく聞えるよう、そっと声をかけた。頬にかかる髪を指先で持ち上げ、耳にかけようとしたところで、ティエリアの双眸が歪む。
 そして俺の耳をつんざいたのは、激しい慟哭だった。喘ぎ過ぎて掠れた声は、腹の底から絞り出された呼吸を孕み、まるで声量を調整できない幼児のような豪快さで壁を、天井を、俺の鼓膜を激しく叩く。
 細い綺麗な指はシーツを引き千切らんばかりに握り締め、時に引っ掻く。俺の手を振り払い、枕に顔を埋めた為に表情は分からないが、絶叫に混じって嗚咽が聞こえた。呼吸の度に鼻を啜る音もする。俺が撫でつけた髪は振り乱れ、枕に撒き散らされた。足下では白い小さな指が必死にシーツを掻いている。
 火がついた様に泣き咽ぶティエリアに、俺は言葉を失った。振り払われた手は、中途半端に浮いたまま動かすことも出来ない。
「ティエリア、」
 ようやく呼びかけた俺の言葉は、圧倒的な叫びの前に打ち消される。部屋に響くのは、ティエリア自身が放つ絶叫の他は衣擦れとスプリングの軋み程度で、物音自体は少なかったが、恐らく耳に届いていないだろう。
 痙攣するように身体を震わせ、丸め、その内側に何かを抱えて苦悶している。のた打ち回った身体がシーツを巻き取り、それで締めつけるように身体を閉じてもティエリアの中にある何かは暴れてティエリアを苛んでいるようだった。
 それは何なのだろう。考えるまでもないことだと気付いたのは、叫びすぎてティエリアの声が枯れ、ひゅーひゅーと空回りした呼吸音が聞え始めた頃だ。しゃくりあげるような荒々しい呼吸と、皮膚の下に何かが這い回っているような強張りを残して、部屋は静寂を取り戻す。それまでの間、俺はかける言葉も、してやれることも見つけられずに、ただ立ち尽くすだけだった。そして今は、俺が何もできないこと、する資格もないことを理解する。
 何故泣いているのか、俺にわからないはずもない。
「俺は、居ないほうがいいな?」
 問いかけではなく、確認だった。この場を離れることを是とするための。
 それは事実ではあったが、この場での贖罪を避ける方便でもある。ティエリアは明らかに傷ついているが、傷つけた張本人が慰められるはずもないのだ。過ちを正すなら早い方が良いのかも知れない、しかし俺はそれをすぐに出来るほど、罪に対して強くはなかった。時間という味方に委ねた方が良い。それは罪を先送りにするに過ぎないことを知っていても、この場合は時間は双方に味方なのだ。
 怒り狂った猫のような鋭い呼吸音を背に、ベッドから這い出ようとすると、背中の肌につるつるとした感触が触れた。無機質な触感に反して、その体温は高い。
「ティエリア?」
 肩に押しつけられた頬は涙でぐっしょり濡れていて、冷たかった。そこでまた涙が流され、枯れた声で嗚咽を漏らす。
「ティエリア、俺は、」
 俺の言葉を遮る慟哭。人の言葉を知らない赤子のように、ただ掠れた声を放っていた。身体を捻ってティエリアに向き直ると、ティエリアの腕が首の皮膚をするすると滑った。なめらか過ぎて滑り落ちてしまいそうな感触を、ティエリアは俺の背中に爪を立てて堪えている。これでこの場からも罪からも、逃れることはできなかった。
 嗚咽を漏らす唇はわなないている。何かを吐き出したいのに、肺は空っぽで咽喉は枯れていた。ティエリアは嗚咽の代わりに、身の内を苛む何かを吐き出す代わりに、俺の肩に噛み付いた。最初はやわやわと歯が触れる。肩はティエリアの口には大きすぎて、顎に上手く力が入らないのだろう。痛みは徐々に徐々に増していったので、痛みに耐えかねてその身体を突き飛ばすようなことを、しないで済んだ。じわりと染みていくように増していく痛覚を、息を吐いてやり過ごす。
「っ、くぅ……」
 背中を滑るティエリアの腕のなめらかな感触。それを切り裂くように、爪が立てられ薄皮が突き破られるのがわかった。俺の口から漏れた声は、ティエリアのそれよりも遥かに高い。情けない、と場違いなことを思った。何よりも情けないのは、ティエリアにかける言葉を持たない俺そのものだというのに。
 肩の一箇所だけを噛んでいたティエリアは、やがて甘噛みをするように歯をずらす。頬が二の腕に擦れ、涙に巻き込まれた髪がくしゃりと絡まった。まるで俺の胸に縋りつくようにしがみついたティエリアの頬を、そっと指で拭って、唇に入り込んでいた毛先を外してやる。髪は涙で張りつき、剥がすとぺりぺり音がした。
 その目元にまで色が滲んだような赤い双眸が、再び涙で歪む。そして枯れた声の絶叫。火がついたように泣く子どものように、髪を振り乱して叫び、その口は叫ぶ代わりに俺を噛み散らす。


 ティエリアの慟哭に、俺自身が最後に泣いた記憶が揺れた。日向の犬に触れた温もりや、駄々をこねる妹の甘ったれた声。そんな日常、それにまつわる全てを喪った時、俺もどうにもならない何かを抱えて、声が枯れるまで泣き続けたことがある。人は取り戻せないものを喪った時、喪ったものが取り戻せないのだと知った時、泣くしかないのだとソーシャルワーカーは言った。
 ティエリアが喪ったもの。それを嘆いて縋りつくのが、喪わせた俺なのだ。そんなティエリアを俺は可哀想に思った。だからせめて、可哀想な子が泣き疲れて眠るまで、痛いくらいは我慢しようとも思う。
 噛みついたティエリアの歯が肩の皮膚を裂き、そこから血が流れた。その力の何処にも優しさなどない。けれども本当に血を流していたのは、俺が持てる優しさの全てを注いだはずのティエリアだった。





 嗚咽が止んだと思ったら、電源が落ちたようにティエリアは眠りに落ちた。頑なに俺にしがみついた白い指から力が抜けて、拘束が解かれる。
 バスルームに入れば数時間ぶりに一人になった。コックを捻り、シャワーを頭から被る。タンクに溜まっていた水は冷たく、徐々に湯気を立て始めた。つむじから頭皮を伝って浸透する湯に気が緩んだのか、崩れ掛けた身体をタイルに手をつくことで支える。うつむくと後頭部から項に湯が道筋をつけた。
 目の前にある白いタイルに、先ほどまで触れていた肌を思い出す。白くてすべすべした肌触り。けれども触れれば人の体温と弾力を返してくれた。触れるほどに血の色が透けて染まり、熱が高まり、咽喉の奥から掠れた声が、
 思わず、タイルに額を打ちつける。無意識に抑制してしまうせいで大した痛みにはならない。それがもどかしくて何度も繰り返す。あの慟哭を受け止める術を、俺は知らない。後悔を打ち消すことなど、誰にもできない。
 頭を打ちつけるのにも飽きた頃、ティエリアの爪痕に湯が沁みて痛んでいることに気付いた。


「発狂、したのかとおもった」
 バスルームから出た俺の耳に届いたのは、穏やかな寝息から打って変わって辛辣な言葉だった。頭突きの音を聞いていたらしいティエリアは、ベッドに身体を起こして身体を覆う毛布ごと膝を抱えている。いつまでも眠ってばかりいるはずもないのだが、まだ向き合う覚悟ができずに、俺は視線を下げる。かけられた声は、少し掠れていて呂律が幼い。きっと眠気の所為ばかりではないだろう。しかしその辛辣さはいつもと変わらず、俺はこれが何でもない、日常のできごとの真っ最中なのではないかと錯覚してしまう。
 けれども視線を戻せば、血の気の失せたいつも以上に白すぎる頬や、それと対照的に腫れて赤味が差した目許が、昨夜の続きとしての現在を頼みもしないのに教えてくれた。背中を震わせて滂沱した姿を思い出して、少しだけ死にたくなる。
「……昨夜は、正気の沙汰じゃなかったと思ってい、」
「だれが」
 被せられた声には怒気、というよりもムキになる気配があった。白い頬に赤味が差すのを見て、俺は慌ててティエリアの勘違いを訂正する。
「お前のことじゃない」
 ティエリアの強くねめつけてきた視線が下がり、抱えていた膝が崩れた。埋もれるように被っていた毛布がずれ落ち、露わになった薄い身体は俺が適当に放り投げていたコットンシャツに包まれている。当然、俺とティエリアにはかなりの体格差があり、袖は肩から大きくずれていて、ティエリアの細さを誇張し、物憂げに頬にかかる乱れ髪と相俟って余計に頼りなげな印象を与えた。
 毛布の端から脚が滑り出る。その目の覚めるような白さに、一瞬呼吸が止まった。大き目のシャツを羽織っただけの姿は、事後における男の理想そのもので、煽情的なものではあったが、今の俺はそれ以上に罰の悪さを感じてしまう。俺がシャワーに出ていた短い間に、適当に着込んだのだろう、掛け違えたボタン2,3個だけで留まっていた。
 もはや癖としか言いようがない。俺はほとんど無意識に歩み寄り、その襟元に手を伸ばしていた。ボタンを外した時点で、ようやく自分のしていることに気付く。無遠慮に距離を詰めた自分の浅はかさを呪った。
 しかしティエリアに拒絶する様子はなく、その視線は立ったままの俺の腹の辺りを漂っている。もっとも、昨夜とて拒絶する素振りはついぞなかったのだから、それだけで判断するのは後悔の二の舞を踊ることになるだろう。
 静かすぎて衣擦れや、ボタンがホールをくぐる時のぷつりと儚い音までもが聞えてしまう中、俺はできるだけティエリアの肌に触れないように作業を続けた。留められていなかった下の方のボタンも掛け、少し裾を引っ張って露わになった腿を隠す。ほっと息を吐いたのは、情けなくもその露出に緊張していたということなのだろうか。
 俺のシャツはティエリアの痩躯には大きすぎるから、第二ボタンから掛けたとしても鎖骨が覗く。第一ボタンを締めた所で大して苦しくもないだろうが、そこは開けたままにしておいた。第二ボタンをホールにくぐらせたところで、ティエリアにかけるべき言葉がわからない自分に思い至って指先が止まる。
 その手にさらりと切り揃えられた毛先が触れた。上から差し伸べられた形になっている俺の手に、ティエリアが頭を傾ける。シャワーを浴びなかったにも関わらず、艶やかで真っ直ぐな黒髪が手の上でたわみ、その上に白い頬が重なった。思わず手を引こうとしたが、素早く伸びたティエリアの手に捕らわれて叶わない。
 ただ当てられる頬は、湯上りの俺の手には少し冷たい。ティエリアも熱が浸透するのを待つようにじっとしていた。頭が傾けられている為、赤く腫れた目許がよく見える。眼が腫れあがるまで、声が枯れるまで泣いたのに。
「後悔、して、いないのか?」
 情けないことに声は震えていた。きっと手だってそうだ。ティエリアに押さえつけられている所為で出来ないだけで。
「なぜ?」
「だって、あんなに泣い、」
「だまれ」
 掴まれていた手が引かれる。まるで腕を一本引っこ抜かれるような力。倒れる身体がティエリアに圧し掛からないよう、何とか片足を軸に身体を反転させ、ティエリアの隣に腰を下ろした。横から腕が巻きついて身体を締め上げ、肩口に頬が寄せられる。
「無様だな」
 声に振り返れば、ティエリアの視線のすぐ先に噛み傷があった。他にも肩から背中にかけては爪痕や引っ掻き傷が散らばっていて、確かに無様なのだが、それをつけた張本人が言ったものか。
 腕の拘束は苦しく感じたが、どうやら俺は責められているわけではない、と理解した。責任を追及されないと分かって、すぐに掌を返せるほど軽々しい人間でいたくないが、ティエリアの態度に安堵したことを否定はしない。自然、口も軽くなる。
「なあ、ティエリア」
 返事はない。しかし寄りかかる肩に手を回しても振り払われなかったので、構わず続ける。
「もしかして、照れてる?」
「愚かな発想だ」
 斬り捨てるように断言する冷たい声音。けれどもその吐息は肩にかかり、頬は変わらず俺にぺったりとくっついている。その二つの温度はかけ離れていたが、俺はほんの少しの自惚れと情状酌量を許された。