「君に、昔話を一つしてあげるよ」


 世の中には、サクセスストーリーと同じ数だけの挫折の物語がある。これもその内の一つさ。プライドが高く、それが折れたことを卑屈な優しさで隠し、コンプレックスを愛情に擦り替えて献上した馬鹿な男の話だ。
 彼は天才と呼ばれていたし、自分でもそう思っていた。今控え目に評価しても、そうだったのだろうね。ただ、彼は天才にも段階があることを知らなかった。目の前にそびえ立つ壁を知らなかったんだ。
 彼にとってのそれは、快活で、奔放で、聡明で、とても美しい女性の形をしていた。彼は躊躇なくそれを利用したよ。彼はあっさり自身に与えられた天才の称号を返上し、彼女の信奉者となった。彼女に対して振る尾を隠したりしない。尊敬の念を絶えず発露させた。そして彼女に恋をした。服従した犬は腹を見せて尾を振るものだからね。
 このまま何事もなく学生時代が終われば、彼は挫折を隠しおおせただろう。けれどもそうはいかなかった。


 あなたは私のことなんて、見ていなかったのね。
 

 これが彼の始まってもいなかった恋を失わせた決定打。彼女がその才能に見合ったスケールで過ちを犯した時、彼女は才能を放棄することを望み、彼は彼女の望みに失望した。彼女が、後悔と哀しみに苛まれながらも失われない、持ち前の聡明さで彼の浅薄な心を見透かした時、服従する卑屈さで守り続けた彼のプライドは崩れ落ちたのさ。




「わからないな」
「君みたいな人にはね」
 理科の実験を見つめる子供のように無垢な瞳で、グラハムは呟いた。彼がそう言うであろうことを予想するのは容易い。それでも彼に昔話をしたのは、昨夜の夢見が悪かったせいだ。
 そして今日、開きかけた古傷を抉るようなタイミングで、グラハムは設計上考慮されていないフラッグの空中変形を成功させ、その功績を僕と分かち合おうとした。彼のそうした態度は、僕になすりつけられるような不快感を与える。
 スタッフ全員が帰った後のオフィスは静かだった。今頃彼らはエーカー中尉の輝かしい記録に祝杯を上げている。その主賓は彼らと同行することを拒み、「カタギリと後から向かう」と飛行記録の検証をしていた僕の許可なしに告げた。
 話している間に、すっかり冷めたコーヒーを一口啜る。苦味以上に吐き気がした。


 私のことなんて見ていなかったのね。


 泣き笑いすら美しい彼女が言った。そう何度も言わなくても、忘れたりしないよと、目覚めた僕は笑った。忘れないから、どうか僕のことなど顧みずにその才能を伸ばしてくれないか。卑屈で脆弱な僕を振り切るくらいのスピードで。
「なぜそこまで自分を客観化し、卑下する必要がある?」
 彼の高らかな声は、卑屈な僕には不快でしかない。もしかしたら彼の方が正しくて、僕は後悔から卑屈が過ぎて、判断を誤っているのかもしれない。けれども僕は僕を否定したいのだ。僕を一々顧みる彼を否定するために。
「僕は彼女の能力しか見ていなかった。才能を殺す彼女に、用はなかったんだ。酷い話さ。彼女はその才能ゆえに苦しんでいたんだから」
「お前の言う“彼女”にとって己の才能が災いしたのは不幸だ。痛ましく、哀れだと思う。だが君の態度はともかく、その姿勢のどこに非があるというんだ?」
「誠実を欠いた。人として、決定的に」
「打算のない人間などいない。他者の長所に惹かれることなど珍しくあるまい。言っておくが私は誰かの欠点に魅了されたことなどないぞ」
 テーブル越しに身を乗り出すグラハムを、コーヒーの紙コップで視界から隠す。半分ほどになったコーヒーを弄びながら、急に誰もいないオフィスで、こんな話をしている自分が照れ臭くなった。三十路にもなってまだ学生時代のことを引きずる自分と、青臭い熱弁を振るうグラハム。酷く滑稽に思えて苦笑する。
「ごめん」
 噴き出しながら謝った。
「君とこんな抽象論を繰り広げる気はなかったんだ。ただ君は僕を過大評価し過ぎる。ギブ・アンド・テイクで充分だろう?」
 手に持ったままの紙コップをテーブルに置く。紙コップの底がカツンとテーブルを叩く音は合図に立ち上がる。さあ、他のスタッフたちに合流して飲もう。そしてこの気恥ずかしい会話を酒で
流してしまおう。
「私は君を過小評価も過大評価もしない。私は君とギブ・アンド・テイク以外の態度で接したことなどない」
 グラハムの言葉は紙コップの底よりも強く潔く、部屋に響いた。
「私は君がいるから飛べる。君は私がいるから飛ばせる。そうだろう?」
 立ち上がって伸びた背筋に、ぞっと走るものがある。寒いのだろうか。それにしては体温と心拍が上がっている気がする。けれども汗は出ていない。グラハムが椅子から立ち上がる。すくっと音のしそうな、毅然とした身のこなしだ。気圧されるのはそのせいだろうか。僕らを隔てる壁が欲しかったが、僕らの間にテーブルも紙コップも、もうなかった。
「私が気になるのは君の現在であって過去ではない。しかし君が私を遠ざけたがるのが“彼女”に起因しているのなら、君のコンプレックスに打開を求める」
 鳩尾に拳を叩き込まれるような衝撃と、アイスピックで突かれるような痛みがあった。無論これは心理的な衝撃による錯覚に過ぎず、頭は冷えきって冴え渡り、隠蔽するような回りくどい理性すら引き潮のように引いていく。僕は冷静なはずなのに、突き通すような衝動が口をついて出た。
「グラハム、それこそ余計な干渉だよ。はっきり言おうか? 僕は君と縁を切りたい。けれども君の才能が邪魔をするんだ。ああ、全く目障り極まりない!」
 声を荒げたのは久しぶりだ。そういう声はいつも出してからの温度差が嫌になる。だから大抵僕はその場から逃げ出すことにしていた。
「……ごめん、どうかしているね。今日は。帰るよ」
「待て」
 グラハムが声と共に踵を返した僕の肘をすかさず掴む。抗い難い強い力強い手だった。
「送っていく。今の君を一人で帰したくない」
「ご心配なく、中尉。皆が待ってるよ」
「君を家まで送り届けたら向かう。君にはもう何も言わないと約束する」




 駐車場まで引きずられ、助手席に放り困れた時には諦めて、シートベルトを自分で締めた。彼が発言を覆すような行動をしないことを知っているということもある。そういった、ある種の信頼すら形成できる程の付き合いが、僕らにはあった。
 運転席のグラハムは公言通り何も言わず、僕もひたすら窓越しに流れる夜景を眺めていた。間もなく僕のマンションが見え、タイヤがアスファルトをなめらかに滑り、停止する。出していた速度の割にはその制動は静かだ。彼のそうした思い切りの良い割りに丁寧な操縦技術に目をつけて、フラッグのテストパイロットに推薦したのは僕だった。
「……ありがとう」
 送ってくれたことに対してのみ礼を言い、シートベルトを外す。ドアに手をかけたところで、その手にグラハムのそれが重ねられた。
「カタギリ」
 手を振り払って逃げるだけの余裕もない。思わず振り返ると、真摯な緑の瞳がそこにあった。
「それが何であれ、君が本音を言ってくれたことが、私は嬉しかった」
「何も言わないんじゃなかったのかい?」
 僕はカラカラに乾いた口で、不快感も露わに言う。話を蒸し返されるのは苦手だった。うやむやに、あやふやに、なかったことのようにして別れたい。結論もいらない。科学者にあるまじき態度であろうと、それが僕の本心だ。
 そんな僕の前に、グラハムは一本指を立てた。その背景は不敵に不遜に笑っている顔だ。
「あと一つだけ。君は、私をフラッグのテストパイロットにしたことについて、後悔を?」
「していない。それだけは」
 ほとんど反射で答えていた。背筋が震え、頭の中は糸がもつれたように落ち着かず、取り繕う暇すらない。ここでYESと答えていれば、あるいはこの関係も終わりにできたかもしれないのに、その嘘だけはつけなかった。彼が今日描いたフラッグの軌跡、変形時に散った火花、すべて瞼に焼きついている。
「では、君は私の実力には恋をしてくれているのだな。ならば私がフラッグで飛ぶ限り、君は私のものということだ」
 ドアを押さえていた手が僕の肩を掴み、引き寄せた。身を乗り出したグラハムの、暗がりにも鮮やかな緑が白い瞼に覆われていくのが生々しく見える。


 唇に触れたのがグラハムのそれだと理解した時には、彼は車ごと去った後だった。強く吸われた舌先がまだじんと痺れて、彼の指先に拭われた唇は震えている。足から力が抜けて、傍らに立つ街灯の支柱にもたれた。そのままずるずると背中が支柱を滑り、やがて地面に辿りつく。
 どうにも逃げられないのだと、僕はそのとき理解した。