食器を多用する一人暮らしの男は稀だ。僕もこの場合はマジョリティに属していて、今日の夕食も出来合いのものをプラスチックのトレイと付属のフォークそのままで食べた。相伴させた相手など、僕以上に杜撰な男だったから、文句など無論ない。
 僕とグラハムは寝食を必要以上に共にすることが多い関係だが、僕が彼との関係を言葉で表現する時―――第三者には仕事上のパートナーとしか言わないので、そんな機会は滅多にないのだが―――言葉に詰まるのはその所為だ。ベッドでのそれを含む多くの時間と肉体的精神的快楽、時に苦痛を共有した相手を一括りにするには、その中でグラハムはどこかずれていた。あるいはその傲慢にも感じる態度が、彼をこれまで僕が恋してきた美しい思い出と同様に認定することを、僕に拒否させるのかも知れない。
 しかし紛れもなく、彼が僕にとって、そうであることはどうしようもない事実だ。


 食べ終わった容器を、隅に残ったドレッシングやソース、レタスの切れ端ごとダストボックスに放り込み、付属のナプキンでテーブルを拭うだけで後片付けは終わってしまった。そしてトレイが広がっていたテーブルに、今は僕が広がっている。
 彼の訪問を受け入れた時点で、こうなることは予想していた。しかしまさか奥歯の間にキャベツが挟まって、ドレッシングの香りも残っているような状況でことを始めるとは思わない。完璧に不意を突かれ、逆らう暇もなく両手を捕られ頭上で一纏めにされた。踵が浮き、爪先が辛うじて床に届いて、僕がもがく度に爪先と床が鈍い摩擦音を立てる。押しつけられた唇はその弾力を器用に使って僕のそれをこじあけ、遠慮も恥じらいもなく舌が割り込んだ。
 ―――どうせなら、ついでにキャベツを取ってくれたら嬉しいんだけどなぁ。
「んん……」
 侵入した舌が奥歯から前歯へ、歯列がなぞる。唇の隙間から鼻にかかった声が漏れて、グラハムの唇の端が吊り上がるのがわかった。舌を絡めとられれば、反射的に動かしてしまう。蠢く舌のざらざらした感触はどこまでもついてきた。舌先だけでつつき合うと、ぞわぞわと舌苔が粟立つ。ねっとりと絡む舌は力強かったけれど、抉られるような苦しさはない。総じて巧みなキスで、解放された時には僕の息は上がり、顎に飲み損ねた唾液が垂れた。腰は完全にテーブルの上に乗り上げ、足は床から離れてだらりと浮いている。
「……食後、すぐの運動は、良くないんだよ」
「相変わらずつれないことを言う。だが、そういうところも好きだ」
 息も切れ切れな僕の手の拘束は解かれないまま、グラハムは片手でシャツのボタンを外していく。ネクタイと上着は帰宅早々に脱いでいたので、簡単に素肌が暴かれてしまった。ボタンを外し終えたグラハムは、緩めていた彼自身のネクタイのノットに指を引っ掛けて乱暴に外し、次いでベルトを緩め始める。
「グラハム、まさかとは思うけど、ここで?」
「何か問題が?」
 大いに。しかしそう答えようとした唇は再び塞がれた。肌蹴た胸に手が這い、肋骨をなぞられ頂を摘まれる。同時にグラハムの片膝が上がり、不本意ながらも反応している僕をぐいと刺激した。
「ひっ、」
 背筋に電流が走り、その後は背骨が抜かれたような脱力感が浸透する。もうこんな傲慢な侵略には慣らされたと思っていたのだが、くたりと倒れ込んだ背を受け止めたのは堅く平たいテーブルだった。柔軟性の欠片もない、無慈悲な堅さが背骨の節を圧迫し、身体の前面を覆う快感を一緒で振り払う。
「グラハム、背中が痛いよ。これじゃできない」
 すでに僕の腹に屈んでいたグラハムは、僕の訴えに顔を上げた。一瞬思案する表情の後、身体を起こしてついでに僕に手を差し出す。彼はそういう動作が悔しいくらい似合う男で、それをもって傲慢さをカバーすることにまで成功している。僕は引き起こされながら若干の忌々しさを感じずにはいられなかった。
 地に足をつけ、腰に手を当てて痛みが残る背中を伸ばす。背骨の節を覆う皮膚は、きっと赤くなっているだろう。背中を伸ばしたせいで、下肢が張っていることをありありと感じた。思わず溜息を吐きながらテーブルから遠ざかり、諦念を抱きながら寝室に足を向けたところで、声がかけられる。
「テーブルは君が立っている分には都合が良いんだぞ」
 背後からのその声に振り返ると、先ほどまで僕の前にいたはずのグラハムは、テーブルに乗りかかっていた。その手は自身のシャツの最後のボタンを外していて、大きく肌蹴られたシャツから、マネキンのように白く均整の取れた肢体が覗く。下肢の熱が高まるのを自覚して、緩やかな筋肉の稜線から目を逸らし、嫌な予感を感じつつ応じた。
「それは、君の豊かな経験による実証データかい?」
「経験は?」
「生憎、そこまでエキセントリックな人と付き合ったことはないんだよ」
「君が協力してくれれば、すぐにもこの場で証明してみせよう」
 両手をあげて僕を迎えんばかりのグラハムが、スラックスのジッパーにかけた手に、僕は自分のそれを重ねた。そうしなければ、僕はこのテーブルで二度と食事ができなくなるに違いない。皿の下にいつもそれを意識せずにいられなくなる。あまりの生臭さに比喩ではなく吐き気がした。
 見上げてくるグラハムの期待がこもった視線にげんなりしながら、僕はできるだけ厳粛な声を出そうと努めたが、成功したかどうかは、後になって考えてみても自信がない。何しろ舌か声帯か意識か、あるいは僕全体かが僕のコントロールを離れて予想外の発言をしたのだ。
「グラハム。僕の家の食卓で、そういうものを出さないでくれ。僕は美食家でもないが、珍味を好むわけでもない。良識的でありたいし、こ……パートナーにも良識的な振る舞いを望むよ」
「パートナー? 言い改める前の表現を知りたいものだな」
「あー…、僕のそれとして、良識を持ってくれるなら考えても良いよ」
 言ってしまってからかなり後悔したが、言い終えた時には半ば自棄になっていた。取引が成立するのならリップサービス程度の妥協もしよう。しかし僕の温厚たらんと婉曲になりがちな口調では、直球派のグラハムの琴線を震わせるに届かない。
「パートナー、と楽しむためなら、私は良識などいつでも捨ててみせるさ」
 楽しいものだよ、と囁きながら首に絡む腕は、僕から温厚、寛容、忍耐といった概念を振り払った。僕は皿を置く度にテーブルと一物が触れたことを思いますのも、テーブルが軋む度にグラハムの身体を思い出すのも、まっぴら御免だ。
 頭がしんと冷えきる中、グラハムの膝で挑発された中心だけが変わらず熱を持つ。
「君は僕の言うことを少しも聞いてくれないんだね。僕を良いようにするばっかりで」
 先ほど意識して出したそれよりも、遥かに低く重々しい声だ。常にこういう声が出せれば色々と便利なのだが、僕は不便にも温厚であるよう努力することを誓ってしまって長い。現代社会における余計な摩擦を避けるために身につけた姿勢だが、こういうときは誓いを破っても良いだろう。摩擦どころか衝突、そして粉砕しても構わないと思う。それはなかなかのカタルシスだったし、それに耐えうる程度には、彼は傲慢で頑丈だ。


 絡みつく左腕を辿り、肩から背中へと右腕を回す。豹変した僕の声音と急接近に、グラハムはらしくもなく目を大きく見開いて瞬きをしたが、やがて自分に都合の良いよう解釈して、僕の首に回した腕に力を込めて、顔を近づけた。それを避ける意味でも、僕は上体を屈める。テーブルからぶらぶらと下がっていた足を左腕でまとめて抱え上げた。背筋に力を込めて、一気に持ち上げる。
「ぅわ!」
 珍しいグラハムの悲鳴に唇の端が吊り上るが、それを指摘してみせるだけの余裕はなかった。できるだけ背中を逸らして身体全体に62キロの負担を負うようにする。寝室まで、可能な限りの速さで足を運んだ。途中、荷物の足が壁に激突した気もするが、やはり構う余裕はなかった。上腕と腰が悲鳴を上げる寸前、ベッドの上にそれを放り出す。そのために一度振り子のように弾みをつけたので、解放されてから腰を襲った衝撃は相当のものだった。
 しかしそれらを一切表情に出すようなヘマはしない。いくら彼の交友歴が豊かで、テーブルの使い心地についても熟知しているほどバリエーションに富んでいても、恐らく初めての経験だろう。投げ出されて肌蹴た胸を無防備を晒し、それでも目を瞬いているグラハムの上に跨った。起き上がろうと肘をつく彼の肩を掴んでベッド押しつけ、跨った足で膝を押さえる。
「さて、グラハム。君が僕の言うことを聞くか、僕が君の言うことを聞かないか。どちらがより平和的で穏便な解決策だろう?」
 あえて肌に触れず、手を耳の横について威圧感を与えた。僕の肩から結った髪が流れて、毛先がグラハムの顎をくすぐる。そんな刺激にも大袈裟にびくついて見せるグラハムは中々に新鮮で、一つ楽しみを覚えた。
「aye, aye, sir.」
「よろしい。では最後の言いつけだ。二度とテーブルの上には乗らないこと。お行儀が悪いからね」
 軍隊式の短い返答の後、僕は彼を、パートナーよりも直接的で有機的な、訂正前の表現を持って呼んだ。彼の耳が見たこともないほど赤く染まって、ほくそ笑む。今夜は新しい楽しみを二つも見つけたが、残念ながら多用はできないだろう。もっとも、多用する気も実はあまりない。
 僕の困った恋人は頑丈で傲慢で、とても調子に乗りやすい人なのだ。