「カタギリ! 今帰りか!?」
 白衣からトレンチコートに外装を取り替えてロッカールームを出たところで声をかけられた。仕事明けとも思えぬ陽気な声に、いささか複雑になる。声の主はつい一時間前まで、改良したバーニアを使いこなすのに夢中だった。僕は三か月かけてその出力を1.5倍にまで引き上げた。さすがのグラハム・エーカーと言えど、それを乗りこなすには苦心し、現在は定時を四時間ほど過ぎている。疲れていないはずがないのに、彼がこうも喜色に満ちた声を出すのは、僕自身困惑することに、僕に会えたからなのだ。
「良かった、間に合ったんだな。」
 まだ支給のコートすら着ていない。腕にひっかけたまま、ネクタイすら結んでいなかった。彼がこうも慌ててきたのは、僕の帰宅時間に間に合わせるためだろう。繰り返すが、僕自身これには困惑している。
 僕は自動ドアのセンサーから一歩離れた場所で歩みを止め、追いすがった彼がコートを着る時間を与えた。
「一緒に帰らないか? 久しぶりに飲もう。改良バーニアの完成祝いだ。」
「この時間じゃもう空いている店はないんじゃないかな。」
 MSの飛行場など、近隣住民には迷惑以外の何物でもない。ごくまれに熱狂的なミリタリーマニアが金網に張り付いてはいるが。とにかくこの飛行場の周辺は、広大な大陸の中でもそれは辺鄙なところにあった。終夜営業の店などない。
「君の家に行ってはダメか?」
 友人としての節度を守ってくれるならね。
 そう言いかけて少し慌てた。はっきりと行動を伴って向けられるのも困るし、叶うなら触れたくもないのだ。彼の、僕に対する好意には。
 はっきりと言われたわけではない。自惚れであれと何度も願った。だが彼はおよそ成人男性としての節度を逸脱して、僕のプライベートへの侵入を試みる。クリスマスを夜勤で過ごした味気無さを嘆いたら、彼は君と二人なら悪くないと笑った。これでどちらかが女性であれば、使い古された感はあるが極上の殺し文句だ。僕は確信を持って断言できた。だが、この場合は困惑するしかない。
 確証とは言えぬ状況証拠ばかりが蓄積して、僕は真綿で絞められるような息苦しさを感じた。距離を空けられれば良かったのだろうけど、彼と過ごす時間はなかなかに面白さと心地良さを伴って、離れてしまうのも心苦しかった。何よりも、何人にも追随を許さない操縦技術を持つエースパイロットと対等に付き合える。それは僕の貧相な虚栄心を満たせる。
「人の部屋で酔いつぶれないでくれよ。」
 自覚しながらそれを許す自分を嘲笑する。だからこういう曖昧な言葉で牽制するしかない。わかっているのかいないのか、彼は満面の笑みで僕の車のキーをもぎとった。
 この笑顔は君に向けたんじゃないんだよ。小さな呟きはエンジン音にかき消された。


「ペダルとの連動に癖があるな。そのお陰で随分手間取った。」
「その割に随分気持ち良く飛んでいたじゃないか。」
「癖があるから面白いんだ。私は常に挑むつもりでMSを駆っている。挑戦すべき山があれば腕がなると言うものさ。」
「パイロットにそう言ってもらえると、こちらとしてもやり甲斐を感じるよ。」
 小さなダイニングテーブルを挟んで、缶ビールを空ける。彼はジュースを飲む子どものような無邪気さで酒を飲む。その飲みっぷりは見ていて気持ちが良いし、会話の内容も厳選されていて弾む。そんな居心地の良さに負けて、彼の訪問を拒否できない。
「本来なら、もっとも技量の低いパイロットに合わせて調整すべきなんだけどね。君のように突出を許された者がいれば、高いクオリティを求められる。これは技術者として僥倖だよ。」
 多弁になっていることを自覚しつつ、缶を空けた。自覚しながら制御できない事態に陥ると、そこから目を背けるために酒を飲む。ただ楽しむためだけに酒を嗜んだのは、もう随分前のことだ。
「僥倖とはこちらのセリフだ。君は速度の向上から操縦桿の感覚まで、見事に私の希望を叶えてくれる。君に会う前の、私の冬の時代を聞きたいか?」
 興奮してるのか、グラハムの頬は摂取したアルコール以上に赤い。僕は、いや結構、とそっけなく言って彼の熱弁に水をかけながら、これかと得心した。
 彼にとって、僕は才能を引き出した恩人なのだ。恩はそれ以前との温度差で実際以上にありがたく思われ、熱しやすい彼は好意と混同してしまう。MSの性能など、いずれ時間が彼に追いつかせるものだ。技術者とて僕以外の僕より優れた者が多くいる。君の前に僕がいるのは偶然なんだよ、グラハム。
 例えば、今は開発の最前線から遠のいた、MS工学の権威たる恩師。彼が本気で上層部に申請すれば、グラハムの専用機を一から作り出すことだって可能だろう。
「だから私は君に感謝している。心から。」
 グラハムはずい、と乗り出して、熱烈な謝意と取り違えた好意、そして酒気を吐きつけた。迷うことなく僕を一点に見つめる瞳は涼しげなブルーグリーンなのに、なぜか体温が上昇する。むせ返りそうになった息苦しさは、酒気ばかりのせいではないだろう。
「MSの技術は日々進化しているからね。僕にばかり構わずに、他の技術者たちとも話してみるといいよ。何なら、紹介状を書こうか?」
 近付き過ぎた顔と感情をごまかすために言った冗談だが、思いの外真面目な口調になってしまった。グラハムの眉間に皺が寄る。
「私は今、君に謝意を伝えたんだぞ。」
 その声は酒気を孕んでいるくせに澱みなく僕の耳に突き刺さる。彼が不機嫌になっていくのがわかった。
「それはもちろん、わかっているよ。」
「わかっていない。」
 彼が座っていた椅子がガタリと鳴った直後、ワイシャツに包まれた二の腕を掴まれる。綿越しにグラハムの指を感じ、その形に汗ばんでいく。
「わかっているよ。」
「わかっていない!」
 高まる語気に危険を察知した。しかし慌てることも強引に振り払うこともできない。してはいけない。冷静に何気なく、このやりとりを日常会話に溶かさなければ。
 ……溶かさなければ、どうなるのだろう。
 脳裏をよぎった疑問は理性が流した。
「わかっているよ。僕は君の役に立てていて、僕はそれを嬉しく思うし、やり甲斐を感じる。ただそれは僕に限った話じゃないだろう?」
「私が今話している相手はお前だけだ。お前だけに限って私は話をしている。」
 腕にこもる力が強くなる。鋭さを増すブルーグリーンは正視するには耐えられない。しかし視線を外すことも叶わない。
 わかっていないのはグラハムの方だ。君の方だ。僕には君からの謝意とそこに混ざった好意が苦痛だ。
 今日、彼が使ったフラッグの新しいバーニア。あれを改良するのに僕は三ヶ月かかった。その間に、あと一月かければ出力を二倍にすることが可能だという試算を出したのだ。
 申請すれば改良の期限を延ばすことはできたろう。それをしなかったのは、グラハムの偉大な才能を恐れ、自分のちっぽけなプライドを守るために他ならない。四か月かけて改良したバーニアを使いこなすのに、グラハムが要する時間は?
 馬鹿げた話だ。開発と操縦は比べるものではない。使われない技術など存在する意味はない。そんなことに固執してしまうほど、彼の才能を凝視してしまう。そして固執する自分の愚劣さを知っているから、彼そのものを正視はできない。
「うん、ごめん。」
 立ち上がったままの彼を見上げ、そっと笑顔を作る。怪訝な顔をするその腕に手を添えた。
「ありがとう、グラハム。僕も、君にとても感謝しているよ。」
 ぽんぽんと腕を叩く。するとグラハムの表情から険しさが消えた。目標がふにゃりとへこめば、正直な彼は矛先に困る。それを知っているから僕はこうする。卑怯なことは承知の上だ。
「いや、……すまない。」
 腕が力をなくし、ゆっくりと外れる。グラハムの困惑が見てとれた。
「ちょっと酔ったんじゃない?」
「まだそんなに飲んではいない。」
「疲れていたんだよ、やっぱり。」
 今度は僕から彼の肩を叩く。そしてとどめの言葉を口にする。
「もう帰って休んだらどうだい?」


 玄関でコートを羽織る彼の背を、どこか冷めた気持ちで見ていた。物足りなさにもにたその気持ちは、自覚すると胸中穏やかでなくなるので忘れることにしている。
「カタギリ。」
「気をつけてね。」
 身支度を終えて振り返ったグラハムを促すように、別れの言葉を口にする。僕は眠気に負けた振りをして、彼を正視はしていなかった。その所為で、彼の動きへの認識が遅れる。
「私は君に、本当にいつも感謝している。ありがとう。」
 黒いカシミヤのマフラーに金髪が良く映えるのが間近に見えた。首に回るこそばゆさがコートの袖だと気付いたのは、それが離れてからだ。
 ぷしゅん、と自動ドアがスライドして、オートロックがかかる。
「だから、僕は正視に耐えないんだよ。」
 冷たいドアに額を当てて、僕はしばらくうなだれた。