薄い壁越しに聞える水音で目が覚めた。口で息を吸い込むと、咽喉がかすれたように鳴る。腕をベッドについて上体を起こすと、体内でこぽりと液体が零れる音がした。それだけで朧気だった意識は完全に覚醒する。
 吐き気が込み上げてきたが、実際に吐いたことはない。それでも背筋が粟立ち、適温に保たれているはずの室内で熱病にかかったような悪寒を感じた。肩を掴み、自分の輪郭を直に確かめ、形状を維持しようとする。それでも腕の隙間から身体がほどけて零れてしまいそうで、起きたばかりのベッドに突っ伏して身体を丸め込んだ。
 そして視界にロックオンのジーンズと、裏返ったTシャツが入る。ベッドのすぐ脇に脱ぎ捨てられていた。行為に及ぶ前、彼がそれを脱ぎ捨てた様子が脳裏に再生される。裾を掴んで一息に捲くり上げ、シャツの下から現れた瞳の色に、脳髄が痺れたことをも思い出す。
 それは手を伸ばせば届く距離にあった。再び身体を起こし、ベッドの上へ引きずり上げる。鼻先まで持ち上げると、彼がつけているフレグランスに混じって、人工のものではない、服に染み込んだ持ち主そのものの匂いがあった。それが鼻腔に届くと、悪寒が少し和らぐことを経験から知っている。一日に一度はシャワーを使って、身だしなみに気をつけている男にも、匂いがあるものだとは知らなかった。そこまでの距離を、他人に許したことなどないのだ。
 内臓が蠢いた気がした。身体的に異常がないことはわかっている。けれども押し寄せる感覚に耐え切れず、手にしたシャツを頭から被った。襟ぐりが大きく、肩からずれ落ちそうになるが構いはしない。重いジーンズも拾い、ベッドから足だけを下ろして身体を引きずるように穿きこんだ。ロックオンとは身長差があるために、爪先までデニムに覆われてしまったが、出歩くつもりもないから放置する。
 熱伝導率の低い素材では、持ち主の体温など残っているはずもない。それでも彼の匂いに素肌を包まれて、衣服の持つ保温効果以上に安堵した。無意識に長い息を吐く。悪寒はもうしなかった。




 感情というものを、性欲というものも知っていたつもりだった。けれども、あんなものは知らない。ヴェーダを通じて得られる膨大な情報すら処理する思考が麻痺していくのは、恐怖でしかなかった。音も温度も、空気すらない宇宙のように冷め切った自分の理性が、感情の泥に飲まれて沈んでいく。いや、感情ですらない。おそらくあれが本能というものなのだろう。
 耳慣れない声が嬌声と分類されるもので、それを発しているのが自分だと気付いたときにはいっそ死にたくなった。けれどもそれを実行する気力や理性も、たちまち侵食されて自分のものではなくなる。
 全てが終わったとき、残ったのは指先にまで満ちた倦怠感と、痛む下肢とそこを伝うどろりとした感触。枯れた咽喉。誘発されるのは、腰を震わせ、背をしならせた自分の姿のフラッシュバック。
 感情が溢れてくるのがわかった。けれどもそれが何の感情なのかわからず、そのことと身体に残る触感に気が狂いそうな思いがした。自分で自分が制御不能になるなど屈辱でしかないと思っていたのに、原因である彼の体温が離れようとすると酷く不安になり、彼の不在にはまた気が狂いそうになる。
 初めて彼の匂いを知ったとき、滂沱しながらもう二度とするまいと、あんな醜態さらすまいと願ったのに、肩が触れると求めてしまう。制御不能に陥る自分が悔しくて、また不安になって、爪を立てて彼に縋った。彼の匂いや体温が残る衣服に包まれては安堵する。そうすれば肩を掴んで爪を立てなくても、背を丸めて呼吸を止めなくても、枯れた咽喉で叫ぶ必要もない。
「お前、また人のもんを勝手に……」
 余韻を引きずった意識では、気配に気付かなかった。振り返ると、髪を拭いながら、スウェットを穿いただけの彼がいた。
「俺が買ってやったのがあるだろー?」
 ジーンズなどという、頑丈さに比例して重苦しいことこの上ない衣類を着る人間の気が知れない。だから彼に贈られたインクブルーのジーンズは、ショップの袋に入ったままだ。今これを着ているのには、衣類としての用途以外の理由があるのだが、それを説明することはできない。自分自身でも良く分かっていないのだ。わからないものを口にするのは憚られる。というよりも、面倒くさい。
 

 彼に向けていた顔を戻し、ただ白い床を見つめた。ロックオンを見ていたくない。見ればまた胸がざわつき、耳鳴りにも似た何かが耳を騒がせ、押し寄せる感情に苛まれるのだ。いっそ、ロックオン・ストラトスという人間がこの宇宙から消えてくれればいいのに、とさえ思う。
「ティーエーリーアー?」
 それなのに声を聞けば凪いだような心境になるから、不思議でならない。その内容は何でもなかった。何かをその声でずっと紡いでいればいいのにと思い、自分が黙っていれば彼はかえって多弁になることを知っているので、沈黙を続けることになる。
「まったく……せめてシャワー浴びてから着るとか、ないもんかね」
 目を閉じてしまいたくなるほど、心地良い声だった。傍に来て、背後に座ってくれれば良いのに。そうすれば彼にもたれて眠ってしまえる。
 そう思うのに、白い床だけを移していた視界に栗色の髪が現れた時には、はっきりと邪魔だと感じた。足首を掴まれ、せっかく常の状態にシフトしつつあった精神状態が、再び波立つのは不快でしかない。
 踝を撫でる親指の感触で、背筋が粟立つのと同時に嗚咽が漏れそうになった。余った袖を握り締め、何とか咽喉の奥に声を押し込める。ロックオンを睨みつけたが、俯いているために旋毛が見えるだけだ。
 掴まれた足首は跪いた彼の膝の上に下ろされた。足裏にスウェットの柔らかな感触と、湯上りの彼の体温を感じ、皮一枚を隔てた中で血液の流れが早くなった気がする。足を解こうともがいたが、強く太腿に押しつけられて剥がせなかった。やがて踵や足首にジーンズの裾と跪いた彼の指が触れ、余った裾を折っているのだと気付く。
 それだけのことなのに、一々動揺する自分が何より屈辱で、わざわざ触れてくるロックオンの存在を心から疎んじた。無意識に、太腿に乗った足に力を込める。折り曲げたそこは張り詰めていて、対してめり込むことはない。スウェットと皮膚と肉の中に硬い骨を感じ、さらに下の床の硬さを感じた。
「痛い痛い、ティエリア痛い、痛いから」
 それでも耳に響く声は心地良く、そのくせ肌にロックオンの指が触れるたび、気が触れそうな気持ちになる。
 感情の落差が激しすぎるのだ。その両端が何かもわからない、全てが曖昧でうやむやで、淀んでいて、気持ちが悪い。触れられた場所に熱が集中する感覚も、抱きしめられて感じる安心感も、離れられることへの不安も、匂いや声に包まれて綻んでいく何かも、全て知らない。
「ティエリア?」
 こんな感情はいらない。なのに押し当てた足を剥がすことはできなくて、伸べられる手を振り払うことも出来ない。
「あなたなんか、いらないのに」
 心からの本音をするりとかわして、彼の掌は頬を撫でた。こんなものはいらない。いらないけれど、今この手が離れたら、きっと自分は泣いてしまうのだ。
 感情など、全て切り捨ててしまいたいと、心から願った。