筋肉とは不思議なものだと思う。自然と重力に従っているときは硬さはなく、かといって柔らかすぎもなく、触れた掌に独特の弾力を伝える。かと思えば、爆発的な力を持っていて、12Gの負荷をものともせずに操縦桿を操って見せたり、今のように人を物陰に引きずり込んで壁に押さえつけたりもする。
 僕は、どちらかといえば前者の感触が好きなのだけれど。
 呟きは胸中を出ることを許されず、溜息ごと吸いつくような口づけに塞がれた。唇が触れるよりも先に、生温く濡れた舌先を感じる。そのまま忙しなく乾燥した唇を舐められるので、降参とばかりに薄く隙間を開けてやれば、喜び勇んで前歯をなぞられる。不覚にも背筋を電流が走って、制止のためにパイロットスーツの二の腕を掴んだ指が食い込んだ。力を籠められたままで、その感触は硬い。
 僕の反応に気を良くして、均整の取れた身体が密着する。コットンのスラックスとパイロットスーツが立てる衣擦れの音というのも、妙なものだ。耐熱・耐寒、耐G機能を有しながら、ここまで薄手にできるユニオンの技術が憎い。密着すれば、絡まる下の熱に浮かされた身体が簡単に伝わってしまう。だが今は逆に、その感触が違和感となり、次いで危機感を呼び起こしてくれた。ここは職場で、今は仕事中なのだ。廊下を一つ曲がれば、他のパイロットや技術者たちのオフィスがある。
 掴んだままの二の腕を押しやろうとしても、哀しいかな、細身に見えて理想的なパイロットの体躯を持つグラハムには敵わない。経験上、そう経験上、知っているのだ。だから、絡め取られていた舌を一度引っ込めた。執拗に追いかけてくる相手のそれを滑りに乗じてすり抜けて、先程彼にされたように歯列をなぞる。
「ん……。」
 吐息と声を解放するために、グラハムが顔を仰け反らせた。壁に押し付けられていた体重も軽くなる。その隙を逃さず、二の腕を押しやり、ついでに彼の顎を指先で押さえて追撃を阻止した。
「仕事中。」
「……その気になっていたくせに。」
「その気を見せないと、君はいつまでもがっつくじゃないか。」
 大きな瞳が上目遣いにねめつける。唯でさえも童顔なのにそうすると余計幼く見えた。不満が露わだが、妙な所で雰囲気に拘る男なので、一度空気を壊してしまえばもう食いつかれる心配はない。ただ、不満そうな顔がどことなくおあずけを喰らった犬のようにも見えて、少し悪い事をしたのかなという気を起こさせる。
「お前が研究室にばかり籠もって、オフィスに顔を出さないのが悪い。」
「寂しかったのかい?」
「会いたかったんだ。」
 揶揄するつもりで問いかければ、ひどくストレートな答えが飛んでくる。なるほど、こういう会話をされれば、その前後に多少残酷な仕打ちをされても許してしまえるかも知れない。まして、個人的な見解だが、彼の周囲にはそういう忍耐なり母性なりを備えている女性が多かった。
「お前が、私の会いたい時にいないのが悪い。」
 理不尽。母性の持ち合わせのない僕は、そう感じずにはいられない。掴んだままのパイロットスーツの二の腕に爪が食い込んだ。そういえば、長らく爪を切っていない。切る暇がないのだ。じゃじゃ馬なMSは、その開発系図に新たな一石を投じる結果を出し、僕の仕事は倍増した。今も研究室の端末は、山積されたデータと共に僕の帰りを待っている。
 思考が蛇行するのは、疲れが溜まっている証拠だろう。掴んだ腕の弾力が力を孕んで、再び硬さを増してきたのを感じて、今度は完全に引き剥がす。次いで廊下に出てしまえば、彼が追ってくるしかないことは分かっていた。
「カタギリ。」
 不満を抑えた声が隣に並ぶ。負の感情を孕んでいるくせに冷たさを帯びないのは、この男が天性で陽気だからだろう。
「今は仕事中。アフターなら付き合うから。」
 告げながら隣を見遣ると、ねめつけていた目が緩む。吊り上がった口角を見て、その頬をつねってやりたいと思った。


「火付きが悪い。」
 不満も露わなその言葉に、意図して深い溜め息を吐いた。
「控え目に言ってもね、グラハム。君は盛り過ぎだと思うよ。まるで発情期の猫だ。」
「アフターなら付き合うと言ったのは君だ。自分の言葉には責任を持つべきだ。」
 言って、グラハムは緩めていた僕のネクタイを一気に引き抜いた。襟越しに摩擦熱を感じる。ついで鎖骨の窪みにねっとりとした感触。反射的に顔を背け後ずさるが、寝室の壁と背中はすでに密着しており、甘受するしかない。彼ほどに過敏でない自分の皮膚感覚に感謝した。
 顎には濡れた金髪が張り付く。まだ湯気の立ちそうなほてりも、バスローブを通してじっとりと僕のシャツを湿らせた。スラックスはもう濡れてくたびれたのが分かる。バスルームから出てきたグラハムは、バスローブの裾からのぞく脚を執拗に絡めていた。勢いあまって、時々ごつごつと壁に膝がぶつかる音がする。痛くないんだろうか、と考えていると唇を塞がれた。
 ガムを噛むような音がして、眉をひそめた。グラハムとのスキンシップはやたらと音が鳴る。そしてやたらと耳につく。何事にも、(何事にも!)集中して取り組みたいタチの僕は、それにいささか難儀していた。
「全くひどい男だな。その気がないのに誘うとは。」
 どっちが、と一人ごちながらその言葉に応じて視線を眼下に向けると、大きな瞳の上目遣いとぶつかった。それはただでさえ幼い顔立ちを、さらに幼く見せている。そのくせ、はっきりそれと分かる意図を訴えるものだから、官能的かつ打算的な艶を持つ。その表情は学生時代の後輩や、飲み屋の女の子たちを思い出させた。
 盛りのついた猫に酒場の女。随分ひどい例えをしているな、と思う間に、シャツのボタンは全て外され、スラックスは腰から下げられようとしていた。だが、僕が背後の壁と密着しているせいで、それ以上は下がらない。グラハムはしばらく僕をゆすったりして苦心していたが、やがて呆れたように溜め息を吐いた。
 ウェストをいじっていた彼の手が、今度は肩に投げ掛けられる。控えずに表現すると、仕事を始めるコールガールの仕草だ。
「観念してベッドに行こう。」
 身体と身体がぴたりとくっつく。絡むのとは違う。二枚の紙を重ねるような接触だった。妙な動きがない分、互いの中心の固さと熱がはっきりと分かる。一方的に絡んでも、一方的に絡まれても、各々の性的嗜好を差し引いても、生理現象というものは平等だ。僕は承諾と諦めを溜め息の形で吐き出し、グラハムの筋肉と細さが奇跡的なバランスで備わっている腰に腕を回した。
 ベッドまで数メートルの距離を、密着しながら歩む。動きにくいことこの上ないが、グラハムが下から抱えあげるように誘導してくれるから、とりあえず前に足を出せば進むのだ。楽といえば楽かも知れない。それにしてもポーズにこだわるものだと思う。今朝、出掛けに開け放しにしたクローゼットについた鏡には、あたかも僕がグラハムをエスコートしているような姿で映っていた。強引に連れ込まれているのは僕の方だというのに。
 ベッドのすぐ横に立つと再び首に腕が回され、唇をじっとりと吸われる。吸う一方で差し込まれる舌を応えるように舐め上げながら、身体が倒れこんでいくのを感じた。スプリングの軋みと僅かな衝撃。僕を引き倒したグラハムは、しっかりと受身を取っている。
 だが、彼がこういったポーズを取ってまで僕に要求するのは、僕そのものを要求しているのだ。身体的な意味だけではなく、この意思を。だから彼は盛りのついた猫にもなるし、コールガールにもなってみせる。誘うだけ誘い、仕掛けるだけ仕掛ける。でもね、欲しいものはそれだけでは入らないんだよ、と言ってあげたい。
 言う代わりに、僕はグラハムの口を塞ぐ。また耳障りな濡れた音がした。肌蹴たバスローブから脇腹を撫でると、彼は絡まっていた帯を自ら解いて放り投げる。それが落ちる音は、続く軋みと吐息に遮られて聞こえなかった。


 掠れた咽喉が大音量を出すと、どうにも素っ頓狂な響きになる。それが断続的に緩急をつけて繰り返されると、折角励んでいるというのに、どうにもげんなりしてしまう。萎える気力を奮い立たせて、細身ながらも引き締まった腹筋を、キーボードに見立てて五指で叩き、なぞる。
 彼の身体はバランスが良い。肉体美というものとは違う。日焼けしにくい上に、寝間着よりもパイロットスーツを着ている時間の方が長いという男だから、肌を陽に晒すことも少ないので、白人独自の白皙を保っている。その皮膚の下の筋肉は軍人に必要されているもので、かといって機体に負荷にならぬよう、慎重に絞られている。今も僕の背中に爪を立てているために、その腕の筋肉は発揮されているのだが、独特の曲線と硬さが肩に触れるのは心地良い。その体躯はその仕草以上に魅力的なのだ。
 だが、哀しいことにそれを差し引いてもマイナスにするくらいに、彼の声は煩わしい。個人的な嗜好だが、声は時折漏らすように聞えるのが好ましいのだ。時折、相手の存在を思い出させる程度に。
 声に辟易して当てていた下肢の動きが止まると、追い立てるように腰にしがみついた脚がきつく締められた。彼の不満はもっともだし、こちらとしても煽られては萎えるを繰り返していては、体力がもたない。元々、体力的にはこちらが圧倒的に不利なのだ。
「グラハム。」
 前戯ですでに乱れている呼吸を治めつつ、名前を呼ぶ。呼ばれた当人は呼吸こそ乱れているし、白い肌を通して血の色が透けている上に目も潤んでいる。だがまだ余裕がありそうで、その瞳には喜色が見てとれた。
「うるさい。」
「なに?」
 疑問符ごと右手を伸ばして塞ぐ。熱い吐息が掌を湿らせ、口の端についていた唾液も付着したが、この際は声が出なければいいのだ。
「ふぁはひり、」
「しー。」
 残る左手を自分の口元に運び、人差し指を立てる。僕らしからぬ行動に驚いていた彼は、さらに言葉を失った。大きな瞳がさらに見開かれ、幼い顔立ちが引き立つ。盛る猫でもコールガールでもなく、エースパイロットでもない、グラハム・エーカーの表情に僕は満足した。そしてその表情を歪めたいと思うのは、嗜虐心というものなんだろうか。
 言葉の概念はひとまず置いて、欲を満たすための行動に移った。今はそういう場で、それを望んだのはグラハム自身なのだ。
 断続的に続いてきた前戯は止めにして、グラハムの口を塞ぐ掌を外さないよう注意しながら下肢に意識を集中する。馴らし途中で止めていたそれを、強引に進めた。押し戻そうとする力にも構わず、奥まで貫く。
 掌の下で空気が震えるのが分かった。酸欠にさせるのも怖いので、少しだけずらして指の隙間を開けてやると、荒んだ息が咽喉の掠れと相まって、しゃっくりにも似た音がする。随分間抜けな音だが、発情期の猫の鳴き声よりは余程良い。
「ふう。」
 強引に進んだ痛みで硬直していたグラハムの脚が弛緩した。締め付ける力も緩んだので、詰めていた息を吐き出す。すると腹に生温い濡れた感触があった。グラハムの弛緩の理由だ。粘りをもつそれは、僕の腹に張りついたまま、重力に従って雫の形を取る。
「気が早い。」
「ふるふぁい。」
 指が抉じ開けられて、唇の上下に合わせて揺れた。
 彼が一人でさっさと旅立ってしまったことが腹立たしく、その身勝手さには言葉もない。だから、行動で示すくらいしか僕にはできないのだと一人ごちた。
 奥まで貫いたものを引き、また進む。浅いピストン運動を繰り返すと、掌の下で顎が暴れた。隙間風のようにひゅーひゅーと鳴る喉が煩わしくて、親指を下顎の柔らかい部分に当てて、無理矢理口を閉じる。
 思いの他深く食い込んだ親指が、痛くなかっただろうかと思い至ったのは、最終ラウンドも終わってからだった。



「お前は最中にハイになりすぎて、相手の首を絞めるような男じゃないだろうな。」
 枕に金の巻き毛を乗せたグラハムは、自分の口を塞いでいた掌を弄びながら言った。それがうんざりするほど真面目な顔だったものだから、嫌になる。
「生まれてこの方三十一年、未だそういう経験はないよ。」
「それに近い経験を今し方したじゃないか。そこまで盛り上がったことがないだけで、未知の領域も存在するのだろう?」
 心配したことを猛烈に後悔する。彼は至極健康で尊大で不遜だった。吐息と唾液でふやけた掌の皺を、指でなぞられるこそばゆい感触にも抵抗する気が起きない。
「今日のは我を忘れたわけじゃないよ。痛くして申し訳ないと思ってる。でもあえて言わせてもらうなら、僕はあまり声を出されるのが好きじゃないんだ。個人的な嗜好の問題でもあるし、何より集中できない。」
「言っておくが、意図的に声を上げているわけではないぞ。娼婦じゃあるまいし。出てしまうんだよ。反射的に。」
「なら、塞ぐしかないじゃないか。お互いのために。」
 この会話で僕は二人の性生活における妥協や理解を求めたわけではない。だが、彼にとってはどうやらそうだったようで、幼い顔立ちの頬を脹らませながら、両手で持った僕の掌を見つめて思案していた。やがて、不満を昇華したのだろうか。口の端が吊りあがるのを見た。つられるように掴まったままの掌も持ち上がる。
「容認しよう。」
 掌の中央、窪みの部分に唇が寄せられた。しっかりと音を立ててなされた口づけのおまけとばかりに、舌先がその敏感な場所を突付く。
「……君なんか発情期の猫で充分だ。」
 こうして不本意な妥協と相互理解の結果を、今一度確認する羽目になったのだ。