ドアを開けたのは踏むべき手順を踏み、守るべき礼儀を守った上でのことだ。断じて勝手にセキュリティを破ったり、制止の声を振り切って開けたものではない。確かに僕はエントランスでインターフォンを通じて来訪を告げ、入室を許可されたのだ。
 だから、ドアを開けた先でシャツ一枚だけをまとい、素晴らしい脚線美と胸の谷間を露わにした女性を目にしてしまっても、不法侵入や覗きと呼ばれる謂われはない。しかし僕は自分を常識人だと信じていたので、それに相応しい行動を取った。
「これは失礼」
 僕の腕は声ほどに冷静でいられず、ドアは派手な音を立ててフレームに叩きつけられた。瞼の裏で白く豊満な肢体が明滅する。そんな頭を振り回したい衝動に耐えながらルームナンバーを確認し、自分が間違っていないことを知った。
「カタギリ、どうした?」
 閉めたばかりのドアから、グリーンの瞳が覗く。ジーンズを穿いただけの、髪から滴る水に濡れた身体の向こうでは、余った長い袖を捲りながらこちらに優しく微笑みかける、先ほどの女性がいた。
「さあ、上がって待っていてくれ」
 普段と1ミリも変わらない声はどこか遠くに聞こえる。何しろさっきは露出に目を奪われて確認し損ねたのだが、彼女はブルネットの豊かな髪とマリンブルーの大きな瞳を持つ、なかなかの美人だったのだ。そしてその見事なバディを包むシャツは、先週僕がグラハムのこの家に置いていったものだった。それを嬉々として脱がしたのは、グラハム・エーカーという男だった気がするのは、そのまま僕の気のせいだろう。


 外で待つという僕の主張は、室内の男女両方から却下された。リビングではなくキッチンで待つというせめてもの願いは叶えられ、僕は難を逃れてそこにいる。まだ髪も乾かさないグラハムがちょこちょこ顔を見せる度、良いから早く文明人に戻って来てくれお願いだから。と投げやりに追い払った。
 調理台に肘を突き、両手を組んでそこに額を当て、祈るような姿勢でいる僕の気配を、グラハムなりに何かしら察したらしく、女性に帰るよう指示しているのが聞こえた。催促や懇願ではない。あれは指示だ。僕にはそんなグラハムの態度を窘める気力も、そして大いに不可解なことだが資格もない。
 僕が彼と出会った頃と同じく、ただの彼の友人たったなら、朝食を作りましょうか、あなたもいかが? という彼女の優しい申し出に対して、図々しくも相伴に預かれば良かった。しかし僕らは友人ではない。少なくとも僕の認識では、彼がいるなら他の誰かとベッドを共にする必要など何もないし、想像だにしない。グラハムはそういう存在になっていた。
 聞こえてくる声の調子で、今彼らがベッドルームで話していることがわかる程度に、そしてそこに着替えを日常的に置いていくほどに、僕はこの家に入り浸っている。逆もまた然り。今彼らが話している部屋で互いの服を脱がせ合い、キスをして、肌に触れ、欲を押しつけ合い、快楽を共有した。僕は彼のキスや愛撫が恐ろしく巧みなことを知っていたし、それを培った豊富な経験も、ただの友人であった頃に知っている。
 それを責めるつもりなどかけらもない。口幅ったいことこの上ないが、嫉妬という感情はないのだ。僕が信じてもいない神に頭を垂れて悩んでいるのは、彼が自分以外の人間と一夜を過ごしたということではなく、僕とその相手を比較して明らかに後者を不当に扱っているということだけだ。
 ああ、それとも僕はイーブンにするために彼に身を捧げるべきなのか。
 迷走を始めた僕の耳に、小気味の良い張り手の音と、次いでドアが閉まる音が届いた。
「最低男!」
 ブルネットの彼女の捨て台詞を復唱するしか、僕にできることはない。




「待たせてすまない」
 キッチンに入ってきたグラハムの頬には、掌の痕がくっきりとついていた。それは自業自得なのだが、彼が着ているシャツは先ほどまで不幸な女性が身に着けていた僕のもので、その事実と着用者の尋常でない神経が、僕にその赤い頬を嘲笑うことを禁じる。いつだってそうだ。だから僕は本題から微妙にずれた話題から話をしてしまう。
「また見事なスパンクだったね」
「男を打ち慣れている手だな、あれは」
 手の甲で頬をさする彼に悪びれた様子がないのには、もはや呆れまい。だがうんざりする気持ちはどうしようもなかった。しかしそれでもこの男の常識や想像を絶する所業はどこかで修正しなければ。僕を奮い立たせるのはそんな謎の義務感だった。
「なぜかいつもこうなってしまうんだ。不器用なんだな」
 不器用などという言葉で全てを片付けようとしていることは驚愕だが、社会や女性心理を理不尽と言わない点を褒めるべきなのだろうか。困ったことに僕は彼のこういうところは好ましく感じてしまうのだ。しかし傍観するにも限度はある。
「えーと、グラハム」
「なんだ?」
 顔を上げて見つめてくる視線は、事後の朝とは思えないほど爽やかで、僕への好意に満ちていた。自惚れではなく、これは事実だ。そう、まずは事実関係の確認をしなければならない。
「あの女性を、その、追いかけなくてもいいのかい? 僕のことはまあ、なんなら、気にしないでいいから」
「追いかける? 私が目下、もっとも気にしている人物が目の前にいるのに?」
 グラハムが身体を寄せてくる。調理台に背をもたれさせていた僕は下がることができず、艶然と目を細めて唇を寄せてくるグラハムの肩を必死に押さえながら、おそらく神経性であろう頭痛を感じた。
「君が僕を……大事にしてくれるのは嬉しいけれどね」
「当たり前だろう。時間をかけてようやく口説き落としたんだ」
 あまりの発言に意識が真っ白になった隙をつかれ、唇が押し当てられる。その奥からは、シャワーを浴びたばかりだったのだろう、歯磨き粉の匂いがした。窄めた唇で吸い上げられる感触に舌を引いて抗いながらも、唇の弾力や粘膜の温かさを甘受していたが、ルージュも塗られていなかった彼女の唇と本題を思い出し、肩に置いた手に力を込めて引き剥がす。
「グラハム、あのね。君の付き合い方は、僕が常識だと信じている範疇から、少し逸脱しているように僕は思うんだ」
 どこまでも穏便に婉曲に表現してしまうチキンな自分を自覚していたが、卑下する余裕は今はない。
「君とのそれに問題があるなら善処しよう」
「寛大な君の心に感謝するよ。でも問題は君と僕ではなくて、さっきの彼女や、君をこれまでひっぱたいた女性たちに対する君の所業でね」
「ほう」
 関心を寄せる素朴な応答だった。彼が大真面目なのは理解しているが、それだけに通じるか自信はない。
「僕はもちろん君の交遊録を全て把握しているわけじゃない。でも推測するに、彼女らをつき動かしたのは、裏切られたというショックや、嫉妬の感情だと思う」
 仕事の時デスクにそうするのと同じように、調理台の縁を指先で叩き、頭で検証しながら話す。こうした論理に、僕はできるだけ感情を混入させたくなかった。不可解なことだが、僕はこの場合彼を糾弾する正当な立場にいて、その立場につくことを承諾したのは僕自身だ。僕らの今の関係が、どちらかの壮大な勘違いの結果だと考えるほど、僕は強くない。せめてヒステリックに受けとられないよう、冷静さをアピールするしかなかった。
 僕にあるのは、グラハムを早くなんとかしなければという危機感と義務感であって、嫉妬の感情ではないのだ。
「では私は彼女らに対して、裏切りに該当する行いをしていたと?」
「そうだね。一般的に、相手を他の何者よりも大事にできないなら……いや、これは違うな。ちょっと待って」
 調理台から指を離し、顎を摘んだ。
 僕自身、これまでパートナーよりも自分自身の都合や仕事を優先してばかりいた。それに何より、彼のプライオリティを僕などに向けて欲しくない。ではどう言えば無軌道な彼に、一定の規則を与えることができるのか。思案を続ける僕に、グラハムは言う。
「嫉妬という感情は、いまいち理解しがたい。いや、そういう概念は知っているが、実感がなかなか得られないんだ」
 この時点で問題は理屈では片付かなくなっていた。いや、あるいは彼の好意を受け入れて時、さらには彼と出会った時点で、とうに僕の中の色々なものは瓦解していたのかもしれない。
 それに気付いた僕は、僕の貧弱な論理と共に床に崩れ落ちた。最新鋭MSのパイロットという、技術の最先端にへばりついて離れないくせに、この男はどこまでも原始人のようだ。しゃがみこんだせいで間近に見える僕の靴の爪先だけが、味方をしてくれるような気がした。
「カタギリ?貧血か?」
 グラハムも傍らにしゃがみこむ気配がする。顔を向けると膝の上で腕を組み、そこに顎を乗せて、童顔をますます幼く見せているグラハムがいた。その幼さのせいだろう、僕が奮い立ったのは。
 僕は彼にビジネスや打算以上の関わりを求められ、僕はそれを長い時間をかけて承諾した。ならば今、素知らぬふりをすることは、グラハムがブルネットの美女を追い出したのと同じことだ。僕は彼と違って、頬にスパンクの痕をつけられて堂々としてはいられない。
 意を決して顔を上げる。心配そうに覗きこむ緑の瞳に向かった僕は、やけにハイになっていた。
「グラハム、もう信じてもらおうとは思わないけど、僕は個人名に所有格をつけるのが大嫌いなんだ。でもね、君のために僕は自分のアイデンティティーを投げ打って、可能な限り分かりやすく言うよ」
「拝聴しよう」
 彼の態度はMSの改良案を聞く時のそれと変わらない。そこまで畏まったところで、場所がキッチンの床では台無しなのだが、この際それはありがたかった。
「つまりね、僕は君のもので、君は僕のものなんだ」
 誰かを所有するのも誰かに所有されるのも、グラハム・エーカーという人間にとっては思いもよらぬ、想像の埒外の事象だろう。彼は誰かを拘束しようとはしないし、何者にも縛られはしない。
彼ほど潔くはなれないが、僕とてそうありたいと思っている。しかし、人間同士においてそうした関係になることはしばしばあり、今の僕らはそれに該当しないことはない。本能的で人間臭い、そして極端な話だ。だがこれくらい極端でないと彼には届かない。
 抱えた頭の中では濁流のようにそんな言い訳が流れる。狭いキッチンの床の上で蹲っている僕を、僕の良識が指差して大爆笑していた。せめて彼が苦笑するなり爆笑するなり、とにかく声に出して笑って、このやるせない静寂を打ち破ってくれたら良いのに。
 代わりに僕の耳に触れたのは、ソープの匂いがする指だった。掌が頬に吸いつき、俯いた僕の顔を上げさせる。
「なるほど、これは私のものなのか」
 上がってかち合った視線はまじまじと僕を覗きこんだ。まるで初めて見るもののように。
 その無邪気な視線は、嫉妬も知らない彼に新しい概念を教えたことが、まるで子どもにポルノグラフィーを突きつけるにも等しい行いような気を僕に起こさせて、今更ながら少し慌てる。
「もちろん人権を侵す権利は誰にもないし、互いを管理する権限や責任もないよ。ただ、相手を尊重して、相手を大事にする、それだけのことさ。例えば相手以外の人間とベッドを共にしたりしないといった、」
 僕の卑屈な口上は尊大な彼の唇に塞がれた。勢いで尻餅をついて後頭部を背後の戸棚に強打し、髪の結び目がずれた感触がする。首の後ろに腕が回り、開いた脚に彼の身体がのし掛かった。密着した胸からは、僕のそれより早い鼓動が伝わる。
「私のものだ」
 離れたグラハムの唇が緩やかに弧を描いた。心底嬉しそうな顔は、新しいおもちゃを与えられた子供のように無邪気で、フラッグに初めて搭乗した時と何ら変わるところがない。
 そんなグラハムに引きずられるように、僕の心情と口許も綻んだ。僕は苦笑まじりの笑顔を彼に向けながら、シャツの余った肩を摘み上げて囁いた。


「僕のものだよ」