意識を深く沈める。その行為に覚悟を必要とするなどど、つい先日までは予想だにしなかった。気を緩めれば集中が解けて、身体が竦む。そうさせるだけの恐怖があった。
 ―――Access Dnied
 その表記とエラー音が、ヴェーダの拒絶が怖くてたまらない。
 レベル3までクリアした意識が、恐怖を反芻して上層まで引き返そうとする。萎えそうになる身体を叱咤し、しかし四肢からはできるだけ力を抜いて無重力に委ね、意識を研ぎ澄ませた。
 恐怖が強ければ強いだけ、そんなことはありえないという思考も強まる。ヴェーダに拒否されるなどありえない。もう一度アクセスすれば、なにごともなかったように―――そうなれば事実、なにごともなかったことになるだろう―――心地良い情報の奔流で自分を包んでくれる。そういう期待も強かった。
 事実を否定したいばかりに都合の良い想像を信じこむ、人間の愚かな部分とは自分は無縁だ。何よりも誰よりも強く深くヴェーダと繋がれる自分なのだから。


 レベル5をクリアする。ここまで来て拒絶されるはずがない。リンクしているのは主に脳だが、このレベルまで来るとデータが粒子となって皮膚に染みていくように感じる。それは間違いなく錯覚だとこの身体をメンテナンスするドクターは言った。
「だが、君がそう感じるなら真実になりうるものだ。その感覚を、それを覚えた自分を大事にしなさい」
 宗教上の問答を思わせるドクターの曖昧な言葉は理解できない。しかしヴェーダと一つになっていることは理解できる。
 奔流のように膨大なデータだが、それは実に緻密にそして正確に整理されていた。幾千幾万もの細い糸が垂らされ、自分はその全てを識別して必要なものを選び取る。
 今回選ぶ糸は決まっていた。川のように流れ続けるデータの中で見つけた、たった一つの淀み。改竄された痕跡。だが、あえてそれは探らずに意識を遊ばせたままにする。
 レベル6、恐怖を感じていた身体はすでに緊張を解いていた。無重力に委ねた手をデータの流れに浸しては引き上げる。もしこのアクセスルームに溢れるデータを人が視認できれば、水遊びのようだと言うかも知れない。
「あっ…」
 不意に咽喉からこみ上げてきた吐息が、微かな駆動音しかしないアクセスルームで反響した。同時に身体が揺れて、自身の吐息と頬が触れ合う。その熱さに驚く間もなく、全身の体温が上昇していくのを感じた。
「何だ……?」
 呟いてもヴェーダは答えてくれない。皮膚の下で血液が流れを早め、ざわざわと蠢くと同時に鳥肌が立った。背筋を虫が這うような感覚に耐えきれず、ヴェーダに委ねていた四肢を縮める。肩を抱いて内側に丸まると、身体の中心が他よりもはるかに高い熱を持って膨張しているのがわかった。
「いやだっ…」
 腹に触れる質量が酷く忌まわしくて、抱え込んだ膝を離して空を蹴る。だが無重力の中で足掻いたところで意味はなく、熱は重く下半身にへばりついたままだった。
 肩を抱いた腕に胸が擦れて痒みを感じる。腕をそのまま押しつけると、ぴりりと痺れた。
「ん、」
 それは静電気のようにか細く脳を刺激する。混乱した思考がさらに鈍り、何も口にしていないのに甘味を舌先に感じた。肩に爪を立てていた手が、気づけば胸の先端を擦っている。
「ん、ん、ん…」
 シャツが摩擦で熱を持つほど繰り返し、やがて全身がそれにあわせて揺れ始めた。忌々しくて突き放した下肢も、脚を擦り合わせて中心をもどかしく刺激している。
「ヴェーダ、なにを、」
 スラックスの前が張り詰めるのを、思わず手で押さえつけた。手のひらに熱が染みて、押し込められた刺激に脊髄が震えて、そのまま身体を丸め込む。全身が寒気に震える中、それでも意識で原因を探った。自発的に身体に生じた生理現象ではない。しかしヴェーダを介して全身をスキャンしても、得られるのは自分が性的な快感を覚えていると見せつける情報だけだった。
「ん、いやだ、やだ、」
 視界が滲むのは生理的に分泌された涙のせいばかりではないだろう。ヴェーダが見せてくる自分の姿は耐え難いものだった。足を擦らせ、その付け根に自分の手で触れ、背中をしならせ、息を荒げ、熱い吐息を吐いている。いびつで生々しくて、気持ちが悪い。
見ていたくなくて目を閉じても、直接リンクしているため情報は止められない。
「いやだ、ヴェーダぁ……」
 リンクを切ろうとした。ほとんど無意識でのことだ。意識があったのなら、あんなにも焦がれたヴェーダとの繋がりを自分から切ることなど考えつかなかっただろう。
 しかしそれはヴェーダによって拒否された。そして切断を試みた一瞬、ヴェーダから送られる情報が鮮明に見えた。自分の身体を苛む性的な刺激、その全てはヴェーダから与えられた信号だった。快感という情報を与えられているに過ぎないのに、身体の疼きは止まらず、流れ込んでくるものをせき止めることもできない。
「やだ、こんなっ、やめて、やめてくれ、ヴェーダっ…」
 目尻に溜まっていた涙が溢れて頬を伝う。それが顎から滴るのを腕で擦ると、口の端から唾液も流れていたことがわかった。下着が濡れているのもわかる。全身が汗で湿り、衣服が張りついていた。シャツが擦れる胸が痒くて、掻き毟る。
「ああ、あ…」
 甘く痺れが走り、意識が霞んだ。中心の高ぶりを押さえていた手は、気づけばそこを握り、擦り始めている。
「ああ、ヴェーダ……」
 高まる体温と呼吸。熱に浮かされながらその名を呼んだ。
「これが、あなたの、」
 ―――望みなのですか?
 そうリンクを通じて問いかけると、どこか遠くで誰かが笑った気配がした。違うよ、と、誰かがそう笑っていた気がする。
「ひっ……」
 下腹部に刺激を感じた。抉られている。スラックスは張りつめてはいるがジッパーすら外してはいないのに、異物感がした。掻き回され、引っかかれる。そのたびに身体の中心が手の中でどくりと脈打った。なのに刺激は曖昧でもどかしくて、嫌悪が勝る。
 身体は熱いのに、背筋が凍りつきそうだった。寒くて寒くてたまらない。そしてそれ異常の、恐怖と絶望が身体を凍らせる。
「た、すけて、助けて、ロックオン…!」


「ティエリア!?」
 自分が、なぜそう叫んだのかわからない。なぜ彼の名を呼んだのだろう。そしてなぜ彼はすぐ応えることができたのだろう。―――こたえてくれたのだろう。
 レベル6を越える深層まで潜っていた意識が浮上する。まだ訓練を受け始めたばかりのころ、「溺れる」ということを経験しろと言われて、水の中に沈められたときのことを思い出した。あのとき自分をすくい上げたのは繋がれていたワイヤーだったが、今自分の腕を掴んで引き上げているのは力強い、他者の腕だ。
「大丈夫か? 何があった?」
 ロックオンの声が、インターフォン越しにではなく直に聞こえる。ターミナルユニットから引き上げる腕の力が現実を教えてくれた。
「どうやって、ここに」
「あ? お前が開けたんじゃないのか?」
 気づけばヴェーダとそうでないものとのリンクは切断されていた。それと同時に部屋のロックも解除されたらしい。異物感も消えていた。ただ、全身が汗で濡れている。熱が引いた身体はみるみる内に冷えていき、寒さに身体を縮めると中心でねちゃりと粘る音がした。
「っ……、」
 息を嗚咽と共に飲み込んだがうまくいかない。何度飲み込もうと試みてもしゃくりあげることしかできなかった。水滴が待っているのは、涙だろう。いくつもいくつも、小さな球が溢れた。
「ティエリア」
 新たな涙の粒が弾ける直前、それを睫毛から払うものがあった。黒いグローブに覆われた指先が、瞼をなぞって涙をさらい、頬を撫でる。
「何があったかは、言わなくてもいい」
 自分をターミナルユニットから引き上げた腕が脇の下をくぐった。汗で冷えた身体に、服越しにも感じる体温が温かい。腕はそのまま背中を包み、脇から通ったロックオンの肩に持ち上げられるように抱かれた。
「怖かったんだな」
 自分の腕は自然と彼の首に回る。涙で濡れた頬と彼の頬が触れ、汗で濡れた髪を、背中を彼の手のひらが撫でる。じわりと触れ合った胸から沁みていく体温に、また涙が滲んだ。しかし、先ほど流した涙とは違うと思う。
 ちゅ、と音を立ててロックオンの唇が目尻を吸った。涙は粒になる前に吸収されてしまう。寒くて凍えそうだった身体がほどけていくのを感じた。息を吐くと、まだ強張りの抜けきらない身体から出たそれは熱く震えてロックオンの前髪を揺らす。
「よしよし」
 子どもにするような仕草で撫でられる。それがこんなにも自分に安堵を与えるとは思わなかった。何度も背中を往復する手のひらが伝えてくれるあたたかさに、また泣きそうになる。
「っ、っく、」
「いいよ、泣いていいんだ」
 目の前にある首にかじりつき、耳元に落とされる言葉で声をせき止めるのを止めた。ナドレを晒してしまったとき以上に、涙が止まらない。眼球を空気に触れさせていたくなくて、ロックオンの肩に擦りつけると、彼は嫌がる素振りも見せずにまた髪を撫でてくれた。
 額と目の辺りが火がついたように熱い。嗚咽が漏れるたびに咽喉も焼けるようだ。だが、同じ熱でも先程の忌まわしい感覚とはまるで違う。ロックオンの手が撫でているのは背中と髪だけでしかないのに、熱を拡散させてじわじわと四肢に沁み込ませていく。
 何かに似ている、そう思った。


 ―――君がそう感じるなら真実になりうるものだ。その感覚を、それを覚えた自分を大事にしなさい。


 ドクターの言葉が思い出される。そう、今の感覚はヴェーダと、何者にも侵されていなかったヴェーダに包まれているときのそれと似ていた。
「……ヴェーダ……」
 また、涙が溢れた。それをロックオンのシャツの肩に擦りつけて吸収させる。
「大丈夫だ。大丈夫」
 何が大丈夫なのだろう。常態の自分ならそう言い返したに違いない。ロックオンはヴェーダがどういう状態かもわかっていないし、自分がヴェーダに何をされたかも知らない。彼の言葉には何も意味はないはずだった。
 しかし、永久に溢れるかと思った涙はやがて止まった。背中を上下する手に合わせて徐々に呼吸が鎮まっていく。涙でぐしゃぐしゃになった顔を、グローブを外した手のひらが乱暴に拭い、貼りついた前髪を掻きあげた。
「ヴェーダがいなくて不安だったか? それとも意地悪でもされたか?」
 せっかく止まった涙がまた滲んで視界を揺らす。歪んだ視界の中で、ロックオンは笑った。
「怖かったな。もう大丈夫、大丈夫だよ」
 睫毛に口づけられ、そこに溜まっていた涙を吸われる。泣きすぎて腫れた瞼を舐められるのは、粘膜を直に感じて不思議な感覚だったが、少しも嫌悪感を覚えない自分がいた。
 まだ、身体は汗ばんでいる。下着の中も濡れたままだ。けれどももう身体は震えていない。凍えるような寒気も感じない。ただ沁みていく温かさと、力強い腕に身体を委ねて安心していた。
「だいじょうぶ……」
 口にしてみると、身体が綻びていくように力が抜けていく。ロックオンは腕に力を込めてそれを支えてくれた。身体と身体が触れあい、また熱が浸透し、流れ込んでくる鼓動や匂いに四肢が浮き上がる。
 ヴェーダとのリンクにも似た感覚。だが、それよりはるかにいびつな接触。そして体温。それが爪先まで沁み渡ったとき、瞼が自然に下がっていった。
「ティエリア?」
 訝る彼の声に答えようとしたが、すでに唇は動かない。ますます力が抜けてくたびれていく身体をロックオンが慌てて支える気配がする。もう少しだけ、そうしていてほしいと思ったが、それを申し出ることもできなかった。
 こんなにも心地良い睡魔に襲われたのは、いつ以来だろう。事態は何も好転していない。なのに酷く安堵して、瞼を閉じる。それでもいいのだろう、曖昧で何の確証も保証もない頼りない感覚。だが、自分がそう感じたなら大事にしても良いと、言われているのだから。
「おいおい、まじかよ」
 ロックオンの呆れたような嘆息を頬に感じながら、落ちていく意識を心地良く見送った。