「口内炎か。私はここ数年お目にかかっていないな。栄養不足ではないのか? カタギリ」
「そりゃ、軍隊の食事は栄養バランス取れてるけどね。僕は誰かさんに急かされて、食事もままならないんだよ。夜も寝かせてもらえないし」
「食事をドーナツで済ませているのは君自身の責任だし、夜の活動は100%合意の上だと思うが、そうだな、急かしている自覚はある」
 昨夜の乱交をちらとも思わせない軽やかな足取りで、グラハムが近付いてきたので、僕はイスを半回転させて向き直った。ずかずかと膝が擦れるほど距離を詰めるので、組んでいた足を解いてわずかに開く。グラハムは躊躇なく割り込んで片膝を僕の足の間から覗くイスに乗せて、手袋に包まれた手で僕の頬を挟んだ。
「舐めておけば治るかな」
「え」
 止める暇などなく、顎を掴まれグラハムの唇が僕のそれに重なった。
「ふっ、ん、んん」
 押し退けようとして足が床を蹴り、イスのキャスターがゴロゴロ滑る。しかしすぐに背後にあったデスクにぶつかったので大した動きはなく、それどころかこれ以上下がることもできなくなった。
「んっ、は、はぁ、」
 腕を払おうとしても、腕力で勝てた試しはない。僕の頭をがっちりと押さえ込んだグラハムは、躊躇なく舌による凌辱の限りを尽くしていた。前歯をなぞられれば閉ざしていたそれは勝手に隙間を作り、その隙間から舌が入り込む。反射的に差し出した舌がそれと絡み、多量に分泌された唾液が昼下がりのオフィスに不似合いな卑猥な音を立てた。イスの軋みが耳慣れて、僕の舌が疲れて痺れ始めた頃、グラハムは元気良く、しかし緩慢な動きで歯列を探る。
「ふぁ、は、んん」
 上の歯の内側の後は上顎をねっとりと舐められ、次いで下の歯列にグラハムの舌先がかかった。痺れた頭で僕は危機を察したが、膝は完全に脱力していて、イスの背もたれと頭を支えるグラハムの手がなかったら座っているのさえ怪しい。僕にできるのは翻弄されながら、痛みに身構えるくらいのことだった。
 グラハムの舌が右の奥歯から内側をゆっくりと辿り、前歯を通る時にはぞくりと痒みにも似た感覚がよぎった。思わず肩がびくりと震える。その隙を突くように中心からやや左より、左の犬歯の真下の辺りにある患部を、グラハムの舌が捕捉した。
 腫れた歯肉を器用な舌先が弾圧する。これがもっと鋭利な痛みであれば、火事場の何とやらでグラハムを引き剥がすこともできただろうが、ねっとりとした動きはじりじりと炎症を苛んだ。
 そして息苦しさと痛みのせいで涙が分泌され出した頃、拷問のようなキスはようやく終わったのだ。
「そんなに良かったか?」
 ご丁寧にも僕の顎を伝う唾液を拭ってくれながらの問い掛けだった。僕はと言えばもちろん答える余裕はなく、ずれた眼鏡が外されるのも放置して呼吸を戻し、後を引く痛みをやり過ごす努力で手一杯だ。
「君には持久力の向上も要求したいところだが、そのおかげで私が好き勝手できるのも事実だろうな」
 上機嫌で語り続けるグラハムが僕の髪を掬い上げた時が、どうやら僕の臨界点だったようだ。
「僕とフラッグと、どちらかでも愛しているのなら黙ってくれないかい、グラハム」
 痛みに痺れた舌は、驚くほどなめらかに低い声を紡ぎ出す。
「もちろん私は、」
「どちらを愛しているかは聞いてないよ。とりあえずその愛にかけて出て行ってくれ」


 この時グラハムは完璧な敬礼と回れ右をして退室した。どうやら、僕が愛云々と言い出したら本気で怒っている証拠らしい、とは解析が終わり、口内炎が治った後で本人から聞いた話だ。
 彼の身勝手で奔放な振る舞いを抑制するのに使えるかと一瞬思案したが、止めた。だってそんな言葉、平素の状態で使えるわけないじゃないか。