春を告げる香りなのよ。
 そう言って髪をかき上げる仕草に魅了された。そこから漂う甘い香りは、淡く頭に霞みをかける。それは僕にとって、恋慕と憧れ、そして崇拝の象徴だった。例えこの先どんな幸福が待ち受けていようと、あれ以上に幸せな時は二度とこない。黄金時代だったのだと、僕は確信している。



 MSの動作が、パイロットのそれを正確に反映するようになったのは比較的最近の話だ。初期のものは、20世紀に夢見られたような角張った動きしかできず、個性などかけらも見えなかった。
 しかし個性を尊重するお国柄のおかげか、現在の最新鋭機は、量産型であるにもかかわらず、如実にパイロットのそれを表現できる。ライトブルーのフラッグは、モデルもカラーも全て同じはずなのに、彼が乗るそれは一目でわかった。旋回、加速、急制動。無秩序で無軌道で奔放で、そのくせ一連の軌跡は見るものに感嘆の溜め息を吐かせる動作で彼は飛ぶ。
 他のMSはすでに追跡を諦めていた。最高速度の計測のための試験飛行だから編隊を組む必要がないのはわかるが、いかがなものか。もっとも、彼の方もそれをわかった上での行動だろう。フォーメーションの演習では、見事に編隊の一角に溶け込むこともできるのだ。それでも僕は、15機の中の1機を見出だしてしまうのだけれど。
「最高記録は更新したよ。そろそろ上がったらどうだい? グラハム」
 これが試験飛行終了の合図となった。


 フラッグは、パイロットの安全性が決して高くない。もちろん生命を軽視するものではないから低くはないが、アメニティは操作性を妨げない程度に限定され、技術の矛先は機動性にのみ向けられている。
 結果、機体が出せる最高速度を実際に計測する機会は減った。それに耐え得るパイロットが少なすぎたのだ。MSWADへの配属を受けた時は期待を抱いた。しかし水準を上回る数値は出るものの、いつだって機体の限界に達する前にパイロットの限界が邪魔をして、いささかの失望を余儀なくされた。
 機動性の追究を諦めないまでも、緩めてしまおうかと思っていた矢先に現れたのが、グラハム・エーカーだ。彼は着任して最初の試験飛行で、その卓越した操縦技術と限界の先を示してくれた。その時フラッグが描いた軌跡は、まだ網膜に焼ついている。
「全く、操縦しているのが人間だということを忘れそうになるね」
「それは褒められたと受け取っても?」
 理論値とそう違わない実際値に、感想と感嘆とを呟いたら、思いも寄らぬ返答がある。振り返ると、パイロットスーツもそのままでヘルメットを小脇に抱えたグラハムがいた。
「どうだった?」
「相変わらず君は技術者泣かせだ。数値が出るのはありがたいけど、機体をあまり苛めないでくれよ」
 パイロットスーツの硬い足音が近い。そろそろ止まってもらいたいという位置を見計らって、クリップボードごと肩を竦める。彼はプラスチック製のそれが触れるギリギリの位置でようやく止まった。
「私はまだ飛べる。だが、フラッグに無理強いするのは趣味ではないんだ」
「だから技術者にワガママを言うんだね。困った人だ」
「君しかそんなワガママも喜んで聞いてくれないからな。ところで、」
 技術者という一般名詞を使ったのに、なぜ「君」という二人称を用いるんだろう。ハイネックの襟元がやけに息苦しく感じた。彼はやたらと僕を限定したがる癖がある。
 そしてやたらと人に接近したがる癖もあった。いつまでもクリップボードのバリケードを掲げてもいられないので下げると、たちまち身を乗り出して覗き込むように上目遣いを向けてくる。肩に手をかけることも度々だ。
「試験の成果を祝して今夜どうだ? 君の好きそうな良い店を知っている」
 僕の好みなんていつ把握したんだい? と問い掛けたいのを何とか飲み込んだ。彼と飲んだことなど数える程度しかない。その時に、ここは良いね、くらいは言ったかもしれないが、そんな一言一言をつぶさに拾われているのだとしたら、空恐ろしいものを感じる。そしてそういう無意識のまめまめさが、彼の奔放な恋を可能にしていた。
「すまないね。今日は遅くなりそうだから」
 息のかかりそうな距離だった。そのおかげで、爛々とした瞳がかげり、形の良い眉がひそめられるのが良く見える。しかしそれは一瞬で、グラハムは密着と言っても過言ではない距離とひそめた眉をぱっと話して笑った。
「また振られたな」


 彼はよく僕をアフターに誘いたがる。最初のうちは配属されたての慌ただしさで断っていたが、あまりに誘いが頻繁なので僕は次第に及び腰になり、口実を作って彼と鉢合わせないようにした。
 それでも彼と彼のフラッグが描く軌跡と数値からは目が離せない。基準からかけ離れたレベルでの微細な調整にも、彼はすぐに答えてくれた。フラッグの先の機体すら想起させてくれるグラハムとの対話は科学者の僕には必要だったし、何より楽しかった。しかし話の最後には必ず誘い文句があり、いつまでも断ってばかりしてもいられない、と感じ始めた頃にようやく、僕は彼の求めに応じた。
 そのとき飲んだのは路地の奥にある小さなショットバーだった。僕としてはもう少し雑然として互いの間に距離と騒音がある店が良かったのだが、基地周辺のその手の店は退役軍人が経営しており、客も軍人が大半だ。客が全員が顔見知りでもおかしくない。僕は必要ならそうした場にも行けるが、必要がなければ行かずに済ませたかった。だが、あの時はあの店の騒々しさが必要だったと後悔した。
 乾杯はMSの更なる発展に捧げられ、次いで互いに相手の業績と実力を讃え合う。彼は僕の称賛を素直に受けとって、かつまだ伸びると胸を張り、対する僕は彼からの讃美が強烈すぎて、その矛先を恩師や他の技術者に譲った。
 そんなやりとりの間、僕はカクテルを舐めるように長く嗜み、グラハムは僕の煮え切らない態度への苛立ちに煽られるように幾度もバーテンを呼び付けた。
 グラハムが五杯目のグラスを空にした頃、話題は彼の学生時代を経由して、フラッグに戻ってきた。僕は彼が何度目かの称賛と共に手を握らんばかりに接近するのを、彼のためのチェイサーを頼むことで避ける。
「ペースが早すぎないかい?」
 彼の失望した表情をよそに、彼の波乱に満ちた女性遍歴はこんな率直さによるのだろうと、納得しようとした。
「ちょっと飲み過ぎたね」
 酔いの煙に巻きながら、彼のグラスを運ばれてきた水と取り換えた。それを彼が飲み切ればこの場を終えられるだろう。あまりにも率直に向けられる賞賛と……好意に、僕は息苦しさを覚え始めていた。
「なぜ避ける」
 グラスを口許に当てたまま、くぐもった声がした。グラハムは微かに充血した目で僕をねめつけている。その視線は大量のアルコールにもかかわらずブレていない。貫くように真っ直ぐに僕に突き刺さるその視線で、暖房とアルコールで温まった身体がふと冷えてざわついた。それは悪寒というのとは違って、嫌悪とも異なった。耳の後ろで血管を血が流れる音がする。これは何かの予感だとはわかったが、どんな予感なのかはわからなかった。
 そんな曖昧模糊とした感覚を振り切るようにグラハムを促してチェックを済ませ、足早に店を出る。入り組んだ路地に冷たい風が吹き込んだ。大通りに出てしまえば道が別れて本当に終わりだ。また明日、MSと任務が僕らの間に入ってくれる。それらを媒介にした関係でいられる。
「カタギリ」
 看板のぼやけた明かりの下で振り返ると、グラハムの身体が跳ねた。バネ仕掛けのように地面から伸び上がる動きは避ける暇もなく、しかし視覚はスローモーションでとらえた。甘いアルコールが匂う。温い触感と、閉じて震える睫毛とその影が波のように寄せて引いた。
 キスを、されたのだと気付いたのは、接近したのと同じ素早さで彼が青白い光の輪の中まで下がってからだ。
「好きだよ、カタギリ。覚えておいてくれ」


 それからどうやって帰ったかは覚えていない。叫んだり喚いたりの記憶はないので、おそらく無言で帰宅したのだろう。夢であれと願ったが、酒量を控えていたせいで意識ははっきりしていたのだ。
 キスと告白。僕はそれを予感していたのだろうか。否と言えば嘘になる。予測ではなく予感だったからはっきりと防衛線を築くことはせず、先回りして彼の矛先を曖昧に逸らしていたのだ。
 グラハムは返答を求めないまま、今日も僕に会いにやってくる。互いのライフワークに関する会話の最後は、決まって彼の誘い文句だ。僕はそれを避けるのに、慎重さをもって挑み始めた。五回誘われてようやく一度応じる。最初に飲んだのと同じ店を使うことは徹底的に避けた。会話は仕事のことに限定して誘導する。
 いっそ転属願でも出して、人間関係の一切を断ち切れば話は早いのだろう。だが、それだけはどうしてもできない。僕はまだ彼を飛ばしたいと願っていたし、彼の律儀さと奔放さをランダムに配列させた人柄には好意を抱いていた。ただ、公私共に彼の唯一のパートナーとなることを了承できないだけだ。
 身勝手かも知れない。相手の好意を知っていながら答えず、穏やかな付き合いだけを望むのだ。さぞ酷い男であるだろう。しかし、そんな僕を肯定したのは、グラハムだ。
 いつものペースで誘いを断った翌日、オフィスの廊下で彼と鉢合わせた。僕は短い挨拶で通り過ぎたかったが、どうやら彼の目を見るに逃がしてくれそうはない。MS搭乗時と同じだけの意気込みが感じられそうなほど強い視線がった。
 軍靴の足音が近づいてくる。そろそろ一杯くらいは付き合わないと都合が悪いかな。どうやって承諾しようかと思索を巡らす脳裏を、懐かしい顔がよぎった。


 ―――春を告げる香りなのよ。


 嗅覚は原始的な感覚だ。ふわりと鼻先を漂うだけで、それに関わる様々な事柄を思い出す。僕が憧れてやまない笑顔のときも、それが苦痛と後悔で悲惨に歪められた時も変わらずに香ったあれは、何という花の香りだったろう。
「カタギリ、今日は付き合ってくれるだろう?」
 襟元に女の匂いをまとったグラハムが、朗らかに笑う。これで断ったら彼はこの香水の主のもとに行くのだろうか。そう思うと気が恐ろしく軽くなり、返答はするりと唇の間を滑り抜けた。
「遠慮しておくよ」
 擦れ違い様に一層強く香水を嗅覚がとらえ、しかめそうになる眉をどうにか微笑の形に押し止める。
「いつになったら応えてくれるのだろうな、君は」
 振り返りはしなかった。足音が止まる気配がする。僕は止まらず歩き続けた。聞えないふりでいい。
 ―――答えることはないと思うよ。
 

 まとわりつく香りを振り払い、オフィスに戻った時に思い出した。花の名前はダフネ。彼女の祖国では、ジンチョウゲと言うらしい。その国では出会いと別れの季節に咲くのだそうだ。