目は確かに見えているのに、見るもの全ての輪郭が曖昧だった。霞がかったぼやけた視界で、色すら判別がつかない。白っぽいような、丸いような、微かに赤が滲んだような。そう、彼が指ごと差し出したクリームの色に似ている。苺の果汁が染みた生クリームはこんな色をしていた。
違和感の正体がわからなくても、現状を認識できなくても、不安はなかった。恐怖も苛立ちもない。そんな自分にも何ら疑問はない。
ここは何なのだろう。
義務的に思ったとき、彼が入ってきた。入ってきた、ということは、ここはやはり部屋の中なのだろう。見覚えのない部屋だが、きっと彼の部屋だ。こんなにも心地良い場所を作る人間を、私は他に知らない。
「ロックオン」
声は不思議な反響を繰り返しながら部屋に響いた。それも別に不思議ではない。彼の名前は特別だから。
「おはよう、ねぼすけ」
肘で起こした上体を支えていただけの私に、ロックオンは手を伸ばす。それを頼りに上半身を起こした。さらりと背中を流れたのは、羽織っていたシーツだろうか。綿を好む彼にしては珍しく、それは絹のように滑らかに背中を滑った。
触れた彼の手の感触だけは自分の知るそれで、嬉しくなる。指先で彼の手のひらを一平方ミリメートルたりとも残さず辿った。
その手をロックオンは緩慢に振り払い、宥めるように撫でながら押さえつける。優しいくせに抗い難い力があったが、不満はなかった。こちらの手を彼か私の膝か、あるいはシーツに置いたあと、ロックオンの手は私に触れてくれる。私の拙さを塗り潰すような巧みさと深さと愛しさで。
まず頬を手で挟まれた。耳の裏から顎の先までを包まれ、こそばゆさにこめかみの辺りが震える。しゃり、と彼の指先で擦られた髪と肌が耳元で鳴った。
親指で唇をなぞられ、薄く開いた隙間に爪が挿し込まれる。舌でそれを捕まえようとすると、彼は指を引いて口角に当てて、ぐいと押し上げる。笑って、という合図だが、ここで素直に笑えた試しがない。
やがて彼の手はリンパ腺を辿るように下へと下りる。咽喉の隆起をなぞり、鎖骨を撫で、肩を手のひらでくるむ。服の襟にかかるかと思った手は、肩の上、耳の下に挿し込まれた。そこで自分が何も着ていないことに気づいたが、それはもう大した問題ではないし疑問もない。先ほど背中を滑ったシーツの感触は、素肌に直接感じたものだった。
挿し込まれた腕が何かを捕らえ、そして引く。もう何も身につけてはいないのに、背中を滑るあの感触がした。
彼の手が引き出したのは髪だった。宇宙と同じ色だと彼が褒めてくれるそれを、彼の指がくるくると巻き取る。
そこで初めて違和感の正体に気づいた。私の髪はこんなに長くない。彼が掬うとすぐに指から零れ落ちてしまい、いつも惜しいと思った。
「きれいだな」
ロックオンが笑って、髪を引く。肩から残りの髪が零れる。彼の瞳を見上げると、そこに映った私に、肘に届きそうなほどの長い髪が揺れていた。
しゃりしゃりとくしけずられ、ハサミが入れられる髪が鳴る。ぷつりと繊維が断たれる振動は、痛みを伴わない欠落を伝えた。肩にかけた、古びた大きなシャツに髪が散る。
「随分伸びたな」
俯いたときに肩からわずかに零れた髪を掬って、ロックオンはそう言った。後頭部に指が差し込まれ、するすると毛先まで撫でられるとその心地よさに目を閉じてしまいたくなる。
「見た目より量あるのに。ほんとまっすぐなんだな。ちょっとうらやましい」
髪をかき分けられ、背筋へと続くうなじの部分に指先が触れて心臓が跳ねた。分けられた髪は肩から流され、残した髪はロックオンが持つ櫛が掬う。
散らばる髪は長くて3センチメートルもない。目が覚めたとき、あの不思議な部屋も肘まで届く長い髪も夢だとわかったが、隣で寝ていた彼は言った。
「髪、切ってやろうか」
肩に届かない程度で揃っていた毛先は、首を動かすたびに肩を撫でるようになっていた。
髪が伸びるの遅いタチなんだな、とロックオンは以前、僕の髪を撫でながら言ったことがある。確かに伸びたと認識する機会は少なかった。最近になって急に伸びたような気がする。
しゃきん、とハサミが鳴った。慎重に詰めたロックオンの息遣いを感じて身体が震えそうになり、それを必死に押さえつける。彼が漂わせる雰囲気は穏やかなのに、心臓がばくばくとうるさかった。
ああ、そうなのか。
彼が撫でてくれるようになってからだ。自分の心臓の音をうるさいと感じるようになったのは。伸びた髪の長さを意識するのも、空腹を感じる頻度も増えた。
「そうなんだ」
「ん? どうしたって?」
呟きを耳敏く拾った彼が訝しむ。頭部に添えられた彼の手にすり寄るように振り返りながら、僕は笑った。
あなたが僕を動かしたんだ。
そう言えば彼は僕のように、僕を愚かだと笑うだろうか。