唇の弾力に男女差はほとんどないのだと、自分からしてみて初めて気づいた。首を傾ける角度を測り違えたのか、触れる面積はわずかだ。グラハムは微動だにしなかったし、僕にはさらに密着しようとする積極性も皆無だったこともあって、それは僕らの年齢からしてみたら酷くぎこちない不器用なキスだった。


 理由?
 良く分からない。そういう気分だったとしか言いようがない。彼の無茶に付き合った可哀想なフラッグの整備のために三日ほど徹夜してハイになっていたのかもしれないし、そんな僕に対して過日の告白からこっち、グラハムが対して余裕ゆえの距離を持っているのが気に入らなかったのかもしれない。彼曰わく、彼がフラッグに乗る限り僕は彼のものなのだそうで、関節部分の微調整を寝食も忘れて10時間ぶっ通しでしていた僕は、それを認めるのにやぶさかではなかったのだ。
 とにかく、僕は自分でも解析しきれない理由で、グラハムにキスをした。フラッグの整備を二日後の任務に間に合わせた慰労会だと言って設けられた、グラハムの部屋での酒の席のことだ。上機嫌だった僕は、隣から僕の身体越しに新しいビールの缶を取ろうとしたグラハムの、重なった身体の熱を感じた途端に、間近に迫った唇にそっと自分のそれを触れさせた。
 躊躇はなかった。それが沸き起こったのはむしろ唇を離してからだ。ちょうど良い身長差と位置関係だったにも関わらず、不器用な接触にしかならなかったことが僕の稚拙さを露見させたし、グラハムは酷く静かで無反応とすら言えた。
 恐る恐る唇を離し、グラハムの端正な顔との間に距離を取る。何か言うべきなのだろうが、言うべき言葉は何一つ出てこなかった。幸いにも酒の席でのことだ。飲んで忘れてしまおうと、右手に持ったままだった缶を持ち上げかけたところで、僕は下手なごまかしをせずに済んだ。グラハムが口を開いたのだ。
「嬉しいな」
 微かな吐息と共に呟かれたあまりに素朴な感想と、子どものようにあどけないグラハムの笑顔に、僕は脱力を余儀なくされた。そのままぴたりと肩に寄り添ったグラハムの上気した頬には微かなえくぼがあり、柔らかな感触が曖昧な熱を伴っている。
 それで、僕はようやく全てを諦める気になった。彼とフラッグが出会ってしまった瞬間から、きっと決まっていたのだ。睡眠時間から貞操に到るまで、僕は彼のものだった。
「いいよ、諦める」
 正直なところ、これまで彼が僕の腕を掴んでも生理的な、同性愛に対する嫌悪はなかった。遠慮のなさに怯み、警戒こそしたが、それは不快に感じない自分がいずれ絆される可能性があることを薄々自覚してのことだろう。だって、僕の唇はまだ彼が含んでいたビールで濡れている。
「君がフラッグを飛ばせてくれるなら三日くらいの徹夜は何でもないし、君が望むならこの身体を差し出しても良いかと思うくらいには、僕は君が好きみたいだ」
 そう言う僕の唇の上の言葉を、グラハムはビールごと舐めとった。あまりに素早すぎて目を瞑る暇すらない。彼の長い睫毛が頬を掠めた。
「嬉しいな、本当に嬉しい」
 いつもの豊かすぎる語彙は枯渇したのか、グラハムはそれだけを繰り返した。僕の口の端にひっかかる吐息を追ってまた唇が、舌が触れる。
「ん、」
 持っていたはずのビールは、いつの間にやら床に置かれていた。舌を絡めながら、両手を取られる。僕の膝に身体を乗り出したグラハムと、向かい合って両手を握っているのはまるで子どものような仕草だったが、グラハムのたこが硬くなった指先にじわりと撫でられると、いずれ僕は彼に欲情させられるのだろうなという予感がした。
 唇が離れ、唾液がだらりと間に垂れた。拭いたかったが、両手は思いのほか強い力で握られていて叶わない。膝の上によりかかっていた体重が退き、握られた両手が引かれる。促されるままに立ち上がった先には、寝室へと続くドアがあった。


 ドアを閉めるなり、背中をそこに叩きつけられ、腰骨にドアノブが当たって正直かなり痛かったが、抗うだけの余裕もなかった。彼が吸いつく度に身体をゆさぶるので、まっすぐ立っているのは困難だ。痛くとも、そこに身体を預けるしかない。
 舌を引きずり出され、肩や背中を熱い掌に撫でられ、太腿が擦られ膝がぶつかる。物理的な作用は僕の感情など綺麗に無視して熱を高めた。まさぐられている、というのはこういうことかと肌を持って実感する。とにかくグラハムの手は忙しなく僕の身体を移動していた。
 肩を掴まれ、彼には程遠いものの工具を振るってきたお陰でそれなりに筋肉のついた二の腕を、掌で解されるように揉まれる。ここ三日の徹夜で凝り固まっていたそこには、その力が心地良くもあった。しかしそれは一瞬で、グラハムの手はもう僕の薄っぺらな胸を這っている。名残惜しいが、まさかこの状態で「もっと」なんていう事もできない。
 胸は、特に局部を刺激されたりはしなかった。掌の部分を押し当てて、大してない弾力を引きずり出すように弄られるだけだ。力は強く乱暴な仕草のくせに、浮き出た脇腹をなぞる時だけは指先を使ってじっくりするものだから、僕は絡んだ舌の隙間から息を吐き出すしかない。
「ふ……、」
 僕の高まった呼吸を慮ってか、唇というか舌が一度離れた。できるだけ静かに息を吐き出しそして吸う。呼吸を落ち着けてからふと気付くと、グラハムは瞬きもせずにまっすぐこちらを見ていた。彼にしては珍しく、笑いもしない完全な無表情だったが、大きな緑色の目は上目遣いに強い力を訴えてくる。彼の意気込みは推して知れた。
 飲んでいた所為で体温は元々上がっていたし、徹夜続きの頭は判断力が鈍っている。そういった不安要素を抱えながら彼に挑みたくはなかったが、僕はもう諦めたのだ。真摯な瞳を宥めるように、僕は間近にあるその唇にキスを贈った。軽く触れるだけだったが、触れる前も触れた後も触れている最中も制御下に置いた、先程より大分マシなキスだった。
 そのままそっと笑うと、グラハムも答える。今度は明確な意図を感じる男の顔で笑っていた。手を取られ、一人には幾分大きすぎるベッドへ誘われる。彼の交友歴を思い返そうとする脳の働きは、アルコールとそれによって高まったテンションが押し止めてくれた。
 ベッドに座らせられると、足の間にグラハムの膝が乗り上げる。そのまま後ろに倒れこむのが協力的かと考えたが、緩めたままだったネクタイを掴まれたので止めにした。ネクタイが解かれ、シャツのボタンが外されていく。胸にグラハムの指が触れる度に何だかとても妙な気分になったが、目を閉じて背筋を這い回る感覚に耐えた。
「はぁ……」
 シャツが肩から落とされ、ベルトも抜かれたところでその嘆息が額を掠める。目を開けるとグラハムは瞳をとろりと潤ませて、僕の身体を見ていた。欲情しているのだろうかと今更だが心底不思議だ。熱い吐息と唇がこめかみに触れると共に肩が押され、ついに僕はシーツの上に仰向けに倒れこむ。そのまま自身もシャツを脱ぎ捨てたグラハムは、僕の胸にぺたりと頬を乗せた。
 胸に張りつく吐息にこそばゆさを覚えながら、その髪を撫でてみると、それはアルコールの所為かこれからすることへの期待(少なくとも彼は多大なそれを抱いていたはずだ)の所為か、汗ばんで指に絡んだ。それを梳かすように撫でてみると、彼の睫毛が胸板を引っ掻く。
「すごい汗だね。髪が濡れ、」
 言葉を言い終えることは叶わず、口は力強いキスで塞がれる。明確な熱と意思をそこに感じた。なのに彼の手は思っていたほど性急ではないようだ。さっきと同じように、身体をまさぐることを繰り返す。忙しなく肩と二の腕を往復し、それに飽きたら胸を擦り、腹をなぞる。身体がぴったり重なっているので、それ以上のことをするなら彼が身体を起こすしかないのだが、彼にその意思はないようだった。ただ、忙しなく動き回るのは足も同様で、彼の膝が時折蹴りつけてきて痛いと感じる。太腿に感じるものは、彼が抱えている熱情を伝えてきて、同様に僕の熱も彼に伝わっているはずなのに、彼の行動はいつまでたってもその解消のためには働いていないようだった。ひたすらに全身を揺さぶられ、擦られている。
「グラハム?」
「もう少し触っていたい、カタギリ」
 名前を呼ばれて、不覚にも胸がざわついた。掠れ気味の彼の声は切迫していて、切実だった。顎に触れた唇が咽喉を通り鎖骨の隙間を抜け、胸の中心を辿る。肋骨の終わりの柔らかい部分を強く吸われた。きっと痕が残っているだろう。
 グラハムはそのまま僕の身体の中心線を通って、ジッパーを咥えた。両手で足を広げられ、膝を曲げられる。ジジジ、とチャックの下がる音と、その中心にグラハムの口があることに驚いて足が動きかけるが、力強い手にがっちりと押さえられて抵抗することはできなかった。
「んんっ……」
 先端を熱い粘膜に包まれる感触。先ほどからの接触で生理的に硬さを持ち始めていたそれは、自慰とは比べ物にならない刺激に喜び勇んだ。
「はっ……」
 一度口が離される。濡れたそれが空気の冷たさに震える間もなく、裏筋を舌先で舐め上げられ、硬直したその先端に柔らかなものが触れた。粘膜とは異なるその感触に思わず顔を上げると、グラハムの紅潮した頬を押していたのが見えてしまう。
 その時脳点から股間へ突き抜けた衝動は、物理的な刺激では説明がつかない。緑色に濡れきった瞳や、紅潮した頬、大きく開いて涎まで垂らしながら咥え込むグラハムに、僕ははっきりと欲情していた。
 徹夜明けで疲れていたのと、万事時間をかける性質だったことが幸いして僕は射精を免れる。だが一気に硬さを増したそれがグラハムの頬を強く押し上げたので、全ては彼の知るところとなった。その時の彼の嬉しそうな表情と次の言葉と言ったら、無い。
「嬉しいなぁ」
 セックス、オーガズムを小さな死と言うが、そんなものの前に少しばかり死にたくなるくらいの笑顔だった。
「それは……良かったねぇ」
 呻きながらも、萎えたりしない自分が心底嫌になる。ちゅ、と音を立てて先端に口づけられ、達しそうになるが、それはどうにか堪えた。あの白い頬にぶちまけるなど、初回にしてはいささか過激に過ぎる。そうなったらグラハムは大喜びしそうだが。
「もう、私も、」
 その切羽詰った声に、いい加減腹を括らねばと思った。だが、折り曲げて抱え上げられると思っていた僕の足はむしろ伸ばされ、そこにグラハムが跨る。身体の向きを変えたほうがいいのかと思ったが、今更それもできない。熱の回った頭で躊躇していると、グラハムは指を自身に当てて、先走って溢れていたものを絡め取った。そして濡れたその指を背後に回す。
「んん、」
 グラハムが僅かに腰を浮かし、表情を苦痛に歪めた。
「は、はぁ、……けほ、」
 荒い息遣いと一人で揺れる身体に、彼の意思をようやく悟る。彼の武勇伝と自分の性格を知る者としては非常に意外だった。むせ返りながらも指を突っ込み身体を上下させて、必死に無理を押し広げている彼の中心に、そっと触れてみる。そこは張り詰めてはいたが、やはり少したわみ始めていた。
「ひ……カタ、ギリ、」
「そのまま、続けて」
 緩みかけたそれを扱いてみる。思っていたほど、というよりも不快感はほとんどなかった。不慣れな上に彼自身が小刻みに揺れながらのことで、ぎこちない愛撫だったがそれなりには感じてくれるらしく、それは徐々に硬さを取り戻していく。
「もう、いい。そのまま、」
 そう言ってグラハムは僕の手を退けた。それをしたのは、グラハムが自分の中に埋めていた手で、ぐっしょり濡れそぼった三本の指に、僕も同意する。
「借りるよ」
 返答を聞かないまま腕を枕元に伸ばし、サイドにあった引き出しを適当に探った。案の定そこには大して中身が入っておらず、目的の物は簡単に見つかる。腕を引き戻し、手にした袋を破って中のゴムを装着した。
 ぎし、と今更スプリングの軋みが耳に届いた。跨ったグラハムが腰を高く浮かし、乗りかかる位置を調整する音だ。ぎ、ぎ、と小さな軋みがやけに静かな耳に響き、さながらカウントダウンだった。硬直を続けていた僕の先端に、ひたりとそこが重なった。グラハムの呼吸と共に小さな収縮を繰り返すそこに、すでに先端がめり込もうとしている。
 来る。
 そう感じた半瞬の後、身体が大きく揺れた。スプリングを効かせ、弾みをつけて呑みこまれる衝撃は相当なものだ。圧迫感よりもその衝撃の方が身体には堪える。呼吸を出来るだけ静かに、けれども長くしていくと、衝撃は徐々に引いて感覚が集約され始めた。極薄のゴム越しに中で充満している熱を感じ、収縮のリズムと呼吸が無意識に重なっていく。
「動くぞ」
「ちょ、待っ」
 やっとリズムが合ってきたと思った矢先、グラハムは太腿の筋肉をごとりと動かしてベッドについた膝に力を込めた。
「グラハムっ……」
「ああ……!」
 それが応答なのか意味のない喘ぎなのかは、もはや分からない。ベッドの悲鳴も遠くに聞えた。小刻みに揺れる身体から汗が撥ねるのも構わなかった。中心を締めつけるものが上下し、解放されるギリギリ手前でまた僕を包み締めつける。包み込まれると、圧迫感は確かに痛みとして感じられるのに、それ以上の熱と柔らかさに頭の奥がぐるぐる回った。
 男であっても、支配するように呑みこまれても、こんなにも快楽が得られるものなのかと醒める思いがしたが、それも一瞬だ。上下に煽られる情動に、手持ち無沙汰な手が耐え切れずにグラハムの骨ばった白い腰を掴み、爪を立てながら良いように揺らした。
「ぁあ、あ、あああっ……!」
 一層激しく腰が揺れ、それと共に強く締めつけられる。脳の回路がショートして真っ白になると思うほどの快感が走った時、僕はグラハムの中でゴムに全てを吐き出していた。






「嬉しいものだな」
 グラハムが呟いた時、僕はゴムの中身が零れないよう注意しながらティッシュで包んでいるところだった。三重に包んで丸めたそれをダストボックスに放り投げながら、僕は訊き返す。
「何だって?」
「口説くのに何年かかった? 出会ってからの一、二年は抜かしても、大体三、四年だ。まったく君の頑固さには恐れ入る」
 手元が狂ったのか、こぶし大のティッシュのボールはダストボックスの縁に当たってフローリングに転がった。しっかりと握り固めてあったので、解けて中身が出るようなことはない。一々拾いに行くのも面倒だったので、僕は諦めてグラハムの隣に身体を横たえた。
 いつもならそのまま捨て置くような類の冗談だったが、やはりまだ気分が浮かれているのだろう。徹夜明けの身体でこなした重労働は酷く堪えて、今にも瞼を閉じて眠ってしまいたいし、二日後には僕が調整したフラッグが遠征に駆り出されることになるから、また忙しい日々はやってくる。フラッグをより高みへ飛ばし、僕をベッドに叩き落したエースに、リップサービスくらいはしてやっても良いと思うくらいには、僕はグラハムが好きなのだ。
「君も大概頑固だと思うけどね。その僕をこうして口説き落としたんだから」
 


 プラズマジェットの駆動音が鼓膜を叩く。音で分かる。エンジンの調子は良好だ。
 滑走路を滑った車輪がやがて浮き、たちまちフラッグはその名の通り空にはためいた。いくつものフラッグの先頭を飛ぶのは、見間違えようもない。グラハムだ。加速したまま空中で機体が形を変えると、彼にしかできない妙技に管制室が沸いた。
 モニターから目を離し、ガラス越しに空を注視する。もう肉眼では黒点のようにしか視認できないフラッグを見送りながら、僕は溜息を一つ吐いた。
 僕らのフラッグが飛ぶ限り、僕は彼のものだった。