「メリィィー、クリスマァァァース!!」

 品のない男のダミ声と、やけに甲高い女の歓声がスピーカーを通して叫んだ。背後にあるつけっぱなしのテレビからだ。一人暮らしの性で、帰宅するなりつけてしまうのだが、深夜三時ともなれば、真冬だというのにサンタクロースを模した露出の多いワンピースの女性と、やたらと大声を出すしがない芸人が織り成すチープな番組しかやっていない。BGMにしてもいささか聞きがたい。
 だが、隣りに立つ男は気にも止めずにターキーをオーブンに突っ込んでいる。いくら出来合いのものだからって、ちょっと粗雑にすぎないか。しかも天板に何も敷いていない。しかしオーブンの扉は閉められた。明日は肉汁のこびりついたそれを磨かねばならないのかと思うと、頭が痛い。
「器用な男だとは思っていたが。」
 オーブンをのぞいて片膝をついていたグラハムが立ち上がりざま言った。何をするにも様になる男で、売れ残りのターキーを見るのさえ、どこぞのご令嬢に対する礼儀と気品を漂わせている。無駄な礼儀と気品だが、見応えと魅力はあった。
「料理までこなすとは、女性が放っておかないのだろうな。」
「まあ、実家を出てからは程々に。」
 これくらいはね、とスープに入れる野菜を刻んでいた手を掲げて見せる。グラハムはそうじゃない、と首を振った。
「オーブンを数回使った形跡が見られる。自炊をしてもこれまで使う男はそうはいまい。」
「君、男のキッチンなんて見たことあるのかい?」
「オーブンを使っている女性には、早々お目にかかれない。」
 男はいわんや。というわけだ。
「なるほど。まあ僕も電子レンジよりは仕上がりが良いから使う程度だけどね。」
 そういえば、僕の周りにも料理に積極的な女性は少なかったな、と言いかけて、懐かしい声が耳の奥で転がった。


「私、料理するくらいなら食事なんてしないわ。」
 大学院で成長の苦労と喜び、そして少しの甘い思い出と苦い記憶を共有した彼女は笑った。
「料理を生業にしている人々に、少しでも生き甲斐と収入をあげるべきではない?」
「君が優秀なのは知っていたけど、経済にまで造詣が深いとはね。」
 彼女の大袈裟な口調はビールのせいで音量を高められている。小さなテーブルに並んでいる惣菜は彼女の経済論に違わず、買ってきたものばかりだ。その内容がいつもより弱冠豪華なのは、博士論文の中間発表会の、ささやかな打ち上げだからだ。
「大体ね、今の社会には数え切れないほどの専門職があるの。専門の仕事をするロボットのメーカーもね。下手に手広くこなしちゃ、専門分野の優秀な人間に迷惑じゃない!」
 声に合わせてビールの缶がベキョっとへこんだ。中身は零れない。すでに空だ。ちなみに三杯目だが、飲み過ぎだよとは言えなかった。
「君も博士号なんてとらずに花嫁修行でもしたらどうかね?」
 いくらなんでもその言い回しは古すぎるだろう。思い出しても、中間発表会での助教授の発言はつっこまずにはいられない。
「まあ、さすが機械工学の最先端を走ってらっしゃる先生のお言葉は、前衛的ですね。古典的を通り越して。」
 その場は笑って嫌味を言っていた彼女だが、現状を見るにやはり堪えていたのだろう。あの助教授はことあるごとに「女性らしい抽象論だね。文学部の方が向いているのではないかな?」だの「夢の内容を論文にするものではない」だの、古典的すぎる女性蔑視な発言をしていた。挙げ句、彼女に論の斬新さで劣る男の院生である僕を、論の組み立てが正確で理論的だと、わざとらしく褒めたてる。
 ―――あれは学生を育てる対象とは見ておらん。嫉妬の対象なのだ。九条くんは特にな。
 恩師の同情的な言葉に僕は頷いた。心から。
「君は、料理なんてできなくて良いんだけどよ。」


 あの時、僕は心から彼女のためにそう言った。しかしそれは彼女のためにならなかった。
 僕はあの時、彼女の表情が寂しげに止まったことに気付くべきだったし、缶ビールを握る指の爪が丁寧に切られてマニキュアも塗られたことがないのを知っていた。だが、気付いたのはそれから二か月ばかりしたクリスマスの夜だ。
 お互い論文の準備が切羽詰まっていたこともあって、予定は立てていなかった。もっともこれは僕の主観にすぎない。
 前日になって、ウチで飲みましょうと彼女に誘われ、僕は出来合いのターキーとフランスパンを抱えて彼女の部屋を訪れた。そして、ターキーを温めようとキッチンに入って気付いてしまった。オーブンは拭いてあるが、一度使われた痕跡はなかなか消えるものではない。包丁は刃こぼれしていたし、ボールやトングも洗い上げてある。
 いつも短い彼女の爪。マニキュアの塗られない小さな桜色が脳裏をよぎる。
「料理なんてできなくて良いんだよ。」
 その言葉は僕の本心だった。僕だけの本心だった。決定打は別の、より重大で手痛い事件だったが、歪みはすでにオーブンの中にあった。なるべくしてなったのだと、今ではわずかな痛みを伴ってそう思う。


「カタギリ、早くスープができないとターキーが焦げる。」
「いや、その前に出そうよ。」
 唐突に現実に引き戻されてもたついた手から、グラハムが野菜の乱切りをさらう。それを耐熱皿に乗せて電子レンジに突っ込んだ。
「グラハム?」
「煮えるまで待っていられるか。柔らかくなればいいんだ要するに。」
 確かに、クリスマスの深夜まで働いた身体は苦情を申し立てている。今からニンジンが柔らかく煮えるまで待っていたら、苦情はストライキにまで悪化するだろうし、せっかく温めたターキーも冷めてしまう。しかし全ての野菜を一括とは、雑すぎないか。
 実家にいたころ、庭いじりに夢中になった母が慌てて昼食を用意していた記憶がおぼろげに甦る。自炊を始めて十年以上になるが、いまだレシピを外れた裏技的なものに手を出せずにいる僕だった。
 釈然とできないでいる僕を尻目に、彼は沸いたケトルをスープ皿に注ぐ。レトルトの粉末が溶けてコンソメの匂いが食欲をそそる。そこへ野菜をごろごろと入れたところで、ターキーができあがった。
「メリークリスマス!」
「メリークリスマス。」
 疲れを知らぬ声に唱和してビールで乾杯し、粗雑なスープを口にする。当たり前だが、鍋に湯を沸かして粉末を溶かすのと味は変わらない。野菜は煮崩れしていないくらいで、かえって良かった。
 レシピの手順などその程度なのだと、少しおかしかった。手順にこだわって結果を出すのにてこずる人間がいれば、一足飛びで結果を出して見せる人間もいる。だが、その手順に泣かされる人間も確かにいる。結果なんて知らないと言えたら、きっと楽だったのだろう。今は少し楽だ。そのことを、ターキーを頬張るサンタクロースに感謝しても良い。
 彼に倣ってかじりついたターキーは温かかったが、熱を加え直したせいで少しパサついているのが難点だ。だが、仕事に疲れた身体には温かいのが何よりありがたい。
「そういえばグラハム。さっきの。」
「ふぁんは?」
「オーブン。例えば僕に、食事を作りに来てくれる親しい女性が存在する可能性はなかったのかい?」
 口に含んでいたもも肉を飲み下し、彼が顔を上げた。
「そんな女性がかつて存在していたとしても、今日のこの晩餐を共にしているのは私だ。」
 そう笑った口の動きに合わせて、肉片が脂で光る。僕は苦笑して、サンタクロースの口許を指先で拭ってやるしかなかった。