その夜は気分が優れなかったので、食事も摂らず、頬に氷を宛がい横になっていた。そこに無遠慮に現れたのが彼だった。口ン中切れてねえか? 舌噛んでねえか? 指で強引に口をこじ開けながらそんなことを聞かれ、応える術もなく困惑していると、彼が珍しく手袋をしていないことに気づいた。俺を殴った利き手は僅かに腫れていて、胸が疼くのを感じた。
殴られた相手に治療をされるのは妙な気分だったが、抗う理由も思いつかず、またそうする力もなく、されるがままに口を開けた。腫れた頬を撫でる指が優しくて途方に暮れた。腫れた指をじっと見つめていると、彼はうすく笑って、勲章だよ、と囁いた。こちらに謝らせてもくれない態度を、ずるいと思ってしまった。痛みを唯ひとりで受け止める、そんな彼のことがよく分からなかった。
あのとき、謝れていれば何かが変わったのだろうか。
彼の弟のことばを聞きながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。
気がついたら見慣れない部屋にいた。自室と形が似ているが、若干端末が多い気がする。それがティエリアの部屋だと気づくのに、少しの時間が必要だった。いつの間に連れられたのか、よく覚えていない。
殴られたばかりの頬が腫れ上がり、耳鳴りがしそうだ。おまけに口内のあちこちが切れて鉄臭い。どうしてここに、と部屋の主に訴えたかったが、口を開くのも億劫だった。そうしているうちに、口の端に濡れた脱脂綿が宛がわれる。不器用なその手つきに鈍い痛みが走る。血を拭ってくれているのだろうと思うが、丹念に拭いすぎているせいで、まるで傷を抉られているようだ。殴られすぎて麻痺したと思っていた痛覚がまた目を覚ますのを感じ、眉を寄せた。びくり、と脱脂綿が振動する。また痛い。
「化膿したら、大変だ」
婉曲に、痛みに耐えろと訴えているのか。己の不器用さへの言い訳なのか。恐らく両方だろう。普段は専門のクルーに任せていることもあるのだろうが、ティエリアの手つきは殆ど手当てというものを知らないようで危なっかしい。合理主義のきらいのある彼がこんなことをするのは珍しかったが、彼なりの気遣いなのだと思うとはね除けるのは躊躇われた。
「今夜はここで眠るといい。窮屈ならば僕が椅子で寝よう」
「…そんな、気を遣わなくても、」
「監視と保護を兼ねて、だ。勘違いしては困る。ロックオンも、きみも、今は気が立っているから」
そう口にしながらも、ふわりと頭を撫でてくる手は不器用で、優しい。俺を安心させたいのか、無理につくった笑顔も四年前にはなかったものだ。変わらないと彼に言ってしまったが、実際、四年を経た彼は驚くほどに変化していた。四年前に殴られたときは銃を向けられたことを考えれば、今の状況は信じがたい。ロックオン・ストラトスが彼を変えたのだ。相変わらず壊すことしか出来ない俺とは違って。
壊すことしか出来ないのならば、全ての痛みを受け止めることが責任だと思っていた。しかし、それすら自己満足に過ぎないのだ。黙って殴られたところで殺した相手が戻ってくるわけでもない。壊してしまったという事実だけが残る。けれど、それ以外にどうすればいいのか分からない。あまりにも壊しすぎてしまったから。
「…ティエリア、」
「なんだ?」
「お前は、変わった」
唐突な言葉にレンズ越しの赤い瞳が見開かれる。それがおかしくて笑おうと思ったが、口の端が切れていて、うまく作れなかった。せっかく拭ってくれた傷口から、また血がにじむのを申し訳なく思った。
「どうすれば変わることができる」
「……変わりたいのか」
「わからない」
鉄臭い唇に、曖昧な言葉を乗せる。自分でもよく分からないものの答えを、相手に求めてもどうしようもないのに。それでも問いかけてしまうのは、縋りたいからなのだろうか。鳴り止んだはずの歌が一瞬だけ、耳元をかすめて消えた。
ティエリアは澄んだ目でこちらをじっと見つめた後、こちらの頬にガーゼを勢いよく貼った。強い力に眉を寄せると、薄い唇がふっとつり上がる。
「痛いか」
「…痛い」
こくりと頷くと、またやわらかく頭を撫でられる。できの悪い子どもをあやすような触れ方だと思った。こちらを覗き込んでくるティエリアの目が、ひどく優しかったからかもしれない。
「そういう風に、口にすればいい。きみは黙って受け入れすぎる」
切れて血のにじんだ唇を、指先がそっと撫でた。痛みで上手く動かすことが出来ず、唯ただその指を黙って受け入れた。粘膜に温かさが滲んで、痛みと共に染みていく。その感覚に、わけもなく泣きたくなった。四年前の、頬を撫でる感触を思い出していた。
「僕が聞いている。きみの醜い本音も、ぜんぶ」
唇から指が取り去られ、代わりにくちづけられる。触れるだけのそれは感情が乗っておらず、唯温かいだけで。まるで契約の判を押すようにすぐに離れた。一方的な触れ方は、それでも不思議と不快ではなかった。頬を撫でる感触。腫れた指。やさしく案じる声。こんなときにどうして思い出すのだろう。彼はもういないのに。
「…せつな」
穏やかに呼ぶ声。背に回される腕に抗うことが出来なかった。やがて震える指先がそれに応え、相手の背に爪を立てる。指先が白くなるほどの強い力だ。
胸の奥で何かが吐き気のようにわき上がり、無性に叫びたいと思った。しかしティエリアが言うように言葉を紡ぐことも適わなかった。音にならないため息が、ひとつ喉から絞り出されただけだ。
結局何一つ変わる事の出来ないまま、相手の体温に縋っていた。歌はもう聴こえないまま夜を過ごした。
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