いつか忘れられちまうのかね。
記念碑の横ではしゃぐ子どもを見て、彼はそんなようなことを呟いたのだと思う。独り言だったので聞き返すことも出来なかった。彼が何故おれをこんなところへ連れてきたのかも分からないでいるのに。
テロの跡地を整えてつくったという記念公園は、整然としすぎてよそよそしい。人の手が行き渡り整えられた場所は嫌いでないはずなのに、息苦しささえ覚えるのは、彼が記念碑をともすればいつまでも、いつまでも眺めていそうだったからだろうか。
記念碑の前に佇む彼をこちらに呼び戻すのに、ロックオンという呼称を使うのは憚られた。しかしそれ以外におれは名を知らず、手のひらもコートのポケットに入ったままであったので、コートの袖を軽く引くことしかできない。彼は相変わらず記念碑を眺めたまま、コートのポケットから手のひらを引き出して、おれの肩を抱いた。そのまま乱暴に頭をかき回されたので、反射的に身体を引いて抗おうとするのだけれど、引き寄せてくる腕の力が強くて適わないのだ。
捕らえてくる腕の力は強すぎて、僅かに震えていた。そんな、縋り付く風にしなくったって、おれは何処にもいかないのに。強引に頭を肩に押しつけられたせいで、彼がいったいどんな顔をしているのか見ることも出来なかった。見たくもなかった。ロックオンでない人間の、顔なんて。
この街が彼の故郷と呼ばれる場所なのだと、言われるでもなく気づいていた。いつもは饒舌な相手が言葉少なにひたすら街を歩く後ろをついて回る。おれが望んだわけではなく、ロックオンが連れ回すのだ。こちらに何を望むでもなく、唯連れて歩こうとするだけだから理解に苦しむ。
こちらとてミッションでないのならば従う必要もないのだが、そうせざるを得ないのは、目を離すと彼が雑踏の向こうに消えて、二度と戻ってこないのでは、という危惧があったからだ。実際に二人でいても、彼はしばしばぼうっと別のことを考えている。そのくせ、不意に抱き寄せようとしたり、それ以上を求めてくるから勝手だ。
「いつまでこうしている」
公園のベンチに腰掛けて、屋台で買った薄いサンドイッチにかぶりつく。屋台の食べ物は不衛生なので極力避けていたのだが、あちこち歩き回って思った以上に腹を空かせていたらしい。すんなりと食べられた自分に軽く驚きながらも、そうさせたロックオンに苛立たずにはいられなかった。隣で同じようにサンドイッチを囓っている横顔を睨めつけると、ゆるく口角をつり上げて肩をすくめる。こんな、人を食ったような態度だけが相変わらずだ。
「地上は嫌いか?」
「そういう問題じゃない」
サンドイッチの最後のひとかけらを口に放り込んだ後、包み紙をぐしゃぐしゃに丸めて苛立ち任せに握りつぶす。そこに描かれた不細工な犬のイラストが歪み、シミのような妙な形になっていた。
「今日のあなたはおかしい。ロックオン」
「おかしいじゃなくて、人間らしいって言ってくれ」
「…なんだそれは」
苛立ちを隠さずに切り返すと、ロックオン自身も戸惑ったように視線をさまよわせた。彼にしては珍しい、無意識の言動だったようだ。彼は飄々としているように見え、いつも慎重に言葉を選んでいる。不用意に他人を傷つけないように。もしくは、自分の本心を晒さないように。
ロックオンは唇を何度か開こうとし、そしてし損じ、少し黙るのを繰り返した後ため息を吐いた。苦笑しながら大きな手のひらで頭を撫でてくる。彼が無遠慮に触れてくるときは、何かをごまかしたいときなのだと、この街に来てからなんとなく、理解していた。おれの問いに対してなのか、自分自身の感情に対してなのかはよく分からない。いつだって彼は不可解だった。それが彼の言う人間らしさなのかもしれなかった。
「何だろうなぁ」
そう呟いて、不意に唇を合わせてくる。何の前触れもなかったので、おれはそれを受け入れるしか出来なかった。触れ合った舌先からマヨネーズソースの味が伝わり、わけもわからず哀しいと思った。
こうして触れていても、彼のことなんて何一つ、分からないのだ。
しばらくミッションが無いことは確認できたので、その夜は久しぶりに彼とセックスをしようと思った。しかし彼がホテルに行ってもおれに触れようとはせず、シャワーを浴びてすぐにベッドに入ろうとしたので、こちらからベッドに侵入するはめになった。
こういうことに誘うのはあまり得意ではないので、言葉をかけるのも面倒くさくなって性器を握りこむ。ベッドの中のなまぬるい温度の主が、ぎくりと身じろぎするのが分かった。構わずにジーンズの留め具を外してくつろげる。清潔な洗剤の匂いと、彼の匂いが入り交じった狭いベッドの上で、四つん這いになって髪をかきあげた。彼の目は見なかった。
「…珍しく積極的だな」
彼の言う通り、おれからこうして仕掛けるのは初めてだった。婉曲にその理由を聞いているのだと思ったが、それを説明したところで、彼には伝わらないだろうと思ったから、黙って性器を口に含んだ。彼に教わって、数えるほどにしか経験のないまま、不器用に舌先を動かすと、それでも口の中で確実に質量が増していく。身体の正直さに救われた。
「んぅ…、ん、ふ」
鼻で息をしながら、黙って輪郭をなぞっていく。口の端からこぼれた唾液を指先で塗り込めると、頭の上で彼が苦しそうに喘ぐのが分かった。とくとくと波打つ性器を爪のうすい部分で辿り、唾液以外の透明な液体をすくい上げて混ぜる。次第に、彼の匂いが濃くなって、額がじっとりと汗ばむのを自覚した。
いつの間にかスラックスが汗で貼り付いており、股間が充血して窮屈になっていた。彼に欲情しているおれ自身を痛いほど感じ、いっそこのまま貫かれてしまおうかと思う。彼が昼間、おれに一方的に触れてきたように、こちらも一方的に体温を貪ることができたら楽になれるだろうか。
自分の唾液と彼の腺液で汚れた指先を、スラックスの留め具にかけても、ぬるぬるとして上手く外せなかった。苛立ち混じりにロックオンを睨みつけても、彼はいつものおれのように、子犬のような声を何度も出しているばかりだった。おれが手を離した性器が、解放を希ってちいさく震えていた。
彼が何度もおれに触れてきたのは、彼がおれに触れて欲しいと思っていたからだ。過去に足をとられそうになる自分を、ロックオン、と呼んで現在に引き寄せる。そのためだけに、おれを置いたのだ。
それに気づいた途端、不意に目尻から涙がこぼれ落ちた。何故涙が出るのか、自分でも分からなかった。曖昧な独り言。要領を得ない呟き。どれも突き放すのではなく、求めていたからだとしたら、どうしようもなく勝手な男だと思う。おれが強引に触れてようやく、悦んで受け入れることができる。そういう弱さが腹立たしくも、哀しくもあった。
「な、いかせてくれよ、ティエリア…」
快楽でもつれた舌で、彼が懇願する。汚れた手のひらで涙を拭うと、頬がべとついた。どうせこの先もっと汚れるのだから構わない。真っ赤に充血した性器をやさしく握ると、それだけで彼は彼自身を弾けさせた。ジーンズもきちんと脱がせていなかったせいで、精液がそこら中を汚した。けれど彼はそれについては特に何も言わず、吐精後の倦怠感に身を任せるばかりだった。
おれは相変わらずスラックスも脱がずに、股間をふくらませたままで、淀んだ深緑の目を眺めていた。へその辺りにまで飛び散った白いものを、カーディガンの袖口で拭ってやると、へへ、と子どもみたいに彼が笑った。
「……何の真似だ」
彼が、笑いながら両手を広げる仕草を見せたので、おれは理解出来ずに問いかけてやる。こういうやりとりすら彼の求める形式に過ぎないのだ。触れたり、触れられたりするのに手順が必要な相手は面倒くさい。それにいちいち付き合うおれは愚かで、彼のように言葉を選ぶのならば人間らしいのだろう。
「来いよ」
抗わずに胸に飛び込む。というより、ベッドに敷いてある彼の身体の上に倒れ込む、といった方が正しい投げやりさだ。充血した性器も、汗ばんだ肌も、全身が彼に欲情していたけれど、彼の腕はそれに応えることはなかった。絡めた足の間にある彼のものは露出しているくせに穏やかで、一方的なセックスは成功しないのだと冷めた頭で悟った。
彼の傍らには、操作途中のまま放置されていた携帯端末が転がっている。ベッドの中で彼が弄っていて、おれの侵入のおかげでうやむやになったものだろう。その画面に、送金しました、と一行だけ表示されていたのが目に入って、やはり彼はおれを見てなどいないのだと思い知った。
彼は、毎月弟に送金していることを、おれが知っているだなんて死ぬまで気づかないのだろう。いつも一方的だから、向けられる気持ちになど気づかない。そういう勝手で、愚かで、哀れな男なのだ。そういう相手に抱きすくめられて、じっと身を固くするおれも、きっと似たようなものなのだろうけれど。
「……ありがとうな」
彼に耳許で囁かれて、不意に泣きたくなった。どうしてこういうときにだけ、彼の指はやさしく触れるのだろう。欲に任せて、蹂躙されれば何もかもがどうでもよくなるのに。余計なことを考える余地をなくしてしまいたいのに。
彼の過去に嫉妬していることを認めたくなくて、胸が痛いのは苛立ちのせいだとずっと言い聞かせていた。与えられ続けるやさしいだけの体温がひたすらに苦痛で、さみしいと思った。
いつか忘れられてしまうのは、きっとおれの方で。
それなのにこの温もりをいとおしいと思う矛盾こそが、おれの唯一の人間らしさなのだ。
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