刹那・F・セイエイは風呂嫌いだ。
何故風呂に入らないのかと問い詰めたところ、クルジスでは一週間に一度だけ川に入ってそれで終わりなのだとか、アリーアルサーシェスに水の中に突き落とされて以来トラウマだとか、普段寡黙な彼には珍しく様々な言い訳を並べ立てた。驚かされたものだが、そんな彼でも風呂に入らねばコクピットに乗せないと言ったら五分ほど悩んだ後に、しぶしぶ納得してくれた。
風呂よりもガンダムという思考回路に密やかに感謝した後、手の中にたっぷりとシャンプーを落とす。最初は自分で洗えると追い返されたが、彼に任せては単なる水浴びで終わってしまうため、監督も兼ねて僕が手を貸すことにしていた。過保護だと笑われようと、衛生面ばかりは譲れない。
「準備はいいか、刹那」
彼は応えない。なので、黙ってたっぷりシャワーで濡らした癖毛に揉み込むと、びくんと裸の肩が震えた。そんなに嫌か、と内心で呆れる。
21になってさえこれならば、16歳だった彼を風呂に入れるのに、彼はどれだけ苦労したのだろう。今はいない相手に改めて敬意を払うと共に、くだらない、と鼻で笑っていた当時の自分を後悔する。コツでも教われば少しはマシだったろうか。心底煩わしいという目で見られると流石に居心地が悪い。
しつこいようだが、彼は寡黙で滅多に自分の感情を示さないので、それだけに堪えるものがある。この僕が、他人の行動に一喜一憂することになるとはそれこそ思いもしなかったが。
しばらく洗っていない油の浮いた髪では上手く泡立たず、ついシャンプーやシャワーの量を増やしてしまう。毎回のことなので、目に入るといった苦情を避けるために最近、シャンプーハットを導入した。初めて見せたときにはやはり露骨に嫌そうな顔をされたが、それでもシャンプーが目に入るのは嫌らしく、大人しく装備してくれている。ロックオンやスメラギ・李・ノリエガにはあまり見られたくない光景ではあるが。
「また泡切れが悪い。最後に洗ったのはいつだ」
事務的な問いかけはシャワーの音に混じり、浴室に反響した。また応えないつもりかと思いきや、少しの沈黙の後、シャンプーハットの下からぽつりと呟きが漏れた。水音に混じり、聞き取るのも苦労するほどの音量だった。
「……一週間ほど前」
「一週間だと!?」
彼が告げた期間はそのまま、僕が彼を浴室に連れて行くまでの期間だ。僕が洗って以来、一切この頭髪は放置されていたというのか。せめて二日に一度は洗えと、前回も言って聞かせた筈なのに、この体たらくとは―――眩暈がする。
「ダブルオーに乗っていて…」
「この一週間、目立ったミッションは無かったように記憶しているが?」
「しゅ、宗教上の理由で……」
「その理由を押し通したいなら故郷に帰ることだな」
珍しく並べ立てられる言い訳たちを次々切り捨てていくと、鏡に映っている、シャンプーハットの下の顔がじわじわと不機嫌で満ちていく。唇を尖らせる様なんてまるで子どもだ。思わず嘆息をすると、相手が低い呟きを漏らした。少し拗ねているような口ぶりが、呆れを通り越して笑えてしまった。
「…風呂に入らないくらいで死なない」
「馬鹿なことを言っているとシャンプーを目に入れるぞ」
そう言ってシャンプーハットに手をかけると、ぐぐ、と下から伸びてきた手がそれを抑えつけようとする。勿論冗談のつもりだったので一瞬の攻防はすぐに終わり、その代わりシャワーの湯を浴びせかけた。辛うじて立てた泡が癖毛を滑っていくのを、かき回しながら見守る。直毛の自分とは違う泡の流れを新鮮に思った。
「随分お節介になった、ティエリア」
「…懐かしくなるか?」
「意識していたのか」
「若干は。きみの適当さが我慢ならないというのもあるが」
誰、と敢えて口にしなくとも分かってくれる。そういう会話は安心できた。彼と空洞を共有するとき、同じ想いを抱えているのだと知ることができたから。それを感傷だと笑い飛ばすべきなのか、僕にはよく分からない。彼も同じことを僕に求めているとは到底思えないけれど。
「あとは…そうだな。きみが好きだから」
「ンッ……!!!!」
相手が身じろいだお陰でシャワーの矛先がずれ、泡が飛び散る。あからさまな動揺がおかしくて、思わず口の端をつり上げた。驚いたようにまるくなる褐色の瞳を見つめ、冗談だ、と付け加えようかと迷ったが、嘘ではないのでやめておく。
意地が悪いだろうかと少しの罪悪感があり、濡れた手のひらで、精悍になってまるみをなくした頬を撫でた。もう少年のそれではない姿をいとおしく、羨ましいと思う。それはひとであることの証だ。
「ミッション以外でも、きみと話をするのは嫌いじゃない。きみを知りたいと思う」
「……それも影響か」
「いや、僕の結論だ」
そう応えながら飛び散った泡をシャワーで流す。堅いものを水が叩く音は雨音のように耳を刺した。温かい蒸気が鼻をかすめてむずがゆく、眉を寄せた。蒸気で曇った鏡でその様を見て、まるで泣くようだと人ごとのように思った。
「誰かが誰かを失うのは、距離があるからだと、思った」
口に出してみると、当たり前すぎてなんだかおかしい。けれど刹那は、何も言わずそれを聞いてくれた。やわらかい髪をかき回しながら、言葉を続ける。できるだけ優しい触れ方をしたいと思った。
「きみを失いたくない。それが理由では、駄目だろうか」
「マリナのときの言葉でも思ったが……そういう前提は、やめるべきだ」
代わりに彼は諭すような言葉を口にしたので、僕は笑うしかできなかった。失いたくないと思うから、距離を縮めたいと願うのに、彼はあっさりと首を振る。
「俺はここにいる、ずっと」
いとも簡単に残酷な言葉を口にするから、何も言えなくなるのだ。そういう言葉を求めているくせに、素直に受け止めることのできない矛盾すら、きっと彼には見透かされている。きっと、この会話など手を滑る泡ほどの価値もないのだ。ほんとうに縮めたい距離は目に見えない。失わないという保証もない。それでも繰り返さずにはいられない。
―――そういう感情を、さみしい、と言うのだと気づいたのは、ずいぶん先のことだった。
その日は珍しく、自分から髪を洗おうと思った。
どうしてそう思ったのかは分からない。単に気が向いた、としか言いようが無い。四日ぶりの泡切れの悪い頭を持てあましながらシャンプーを塗りたくっていると、毛先からぼたぼたと水滴が落ちてくる。
シャンプーハットを恋しく思ったが、その所在はティエリアにしか分からない。一体どこにやったのだろう。今はまだいいが、洗い流すときにシャンプーを目に入れない自信がない。不便で仕方ないというのに。
しばらく頭に泡を盛りつけたまま、シャワールームをうろついていた。しかし見つかる様子もないまま大きなくしゃみが漏れて、ようやく我に返る。
こうしていても湯冷めをするだけでらちが明かないので、仕方なく固く目を閉じて頭から水を被るという強行軍に出たのだが、瞼の隙間から水がじわじわと染みてきて具合が良くない。心の底から後悔をした。こんなことを二日に一度も繰り返す相手の気が知れない。
やはり髪を洗うのは週に一度で充分だ、と結論づけて、シャワールームを後にする。のろのろと制服を着て、頭を乾かす代わりにタオルを肩にかけると、鏡に映るその図の滑稽さになんだか億劫になった。制服とタオルが全く似合わない。しかし乾かす気もしないので、そのままにするしかないのだが。
水滴が落ちないよう、一応気を配りながら端末の電源を点ける。ヴェーダからの通信がないことを確認し、少しだけ期待した自分を笑った。もし何かコンタクトがあったとして、俺はなんと返すというのだろう。お前の言うとおり髪を洗ったのだとメッセージを送ったところで、彼がそれを受け止めるとも限らない。彼はヴェーダの一部であって、ヴェーダそのものではないのだ。何処までを彼のかたちと呼ぶべきなのか、俺にはよく分からない。
誰かを失うのは距離があるからだと、彼は言った。だから彼はそれを埋めたがって、そのくせに勝手にいなくなってしまった。彼のいう距離とは何だったのだろう。俺が人間であり、彼がイノベイトだからか。変わることで追いつくことも出来ないのか。
こうして彼の痕跡を辿っても、さみしくなるだけだった。こうして彼の存在が過去形になっていくのを、俺は黙って見ているしか出来ない。彼はそこにいる筈で、距離なんてない。そう思いたい、のに。
「ティエリア……」
名を呼んでリンクを試みても、彼の声が聞こえることは殆どない。俺は何処にもいかず、ここにいるのに。ずるい相手だと思う。あんなにも他者を求めながら、勝手に悩み、勝手に自分の行動を肯定し、勝手にいなくなった。そういう一方的なところまで似ているから嫌になる。
言いたい言葉はたくさんあるのに、伝える先がないのがもどかしい。それでも、彼は存在するのだと信じ続けることでしか、彼のかたちを保つ術はない。さみしいと、思っても。そこにいるのだと記憶することでしか、
「……ッッッ!!!!」
たまらなくなって、激情のままに入力端末に指先を叩きつけた。ばん、と激しい音がして、モニタによくわからない文字の羅列が流れる。水滴がぽとぽとと飛び散り、端末やデスクを濡らしていった。リンクを試みたままの目からも同じようなものが流れているのに気づいたが、拭うことも億劫になったのでそのままにしておく。
湯冷めして冷えた指先で、ぎこちなく文字の羅列を消した。それからメールボックスを立ち上げ、彼のもとへとメールを打つ。
―――俺はここにいる。
この言葉が届くかどうかも分からない。けれど、こうして伝え続けるしかない。結局は、俺も彼と同じように一方的なのだ。
届いて欲しいと、淡い期待を込めながら送信完了画面を見つめる。そうして彼という存在をかたちづくっていく。俺の言葉は届かないかもしれない。距離は生まれるばかりなのかもしれない。それでもまだ。
深くため息を吐いてから、タオルで目元を拭ったとき。
メールの着信音が鳴って。それから。
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