今日もダメでした。
 力無く言って、フェルトがトレイを置く。そこにのせられた色味のないリゾットは、出来たばかりの状態のまま湯気だけが消えていた。弱った身体を慮り、少ない材料の中で彼女が苦心して考え出したメニューだった。宇宙育ちで料理に慣れているわけでもない。その彼女が、だ。それなのに。
「こんな可愛い子が作ってくれたっていうのに、罰当たりね、うちのガンダムマイスターは」
 冗談めかして言うものの、場にある空気の重さは少しも解消されなかった。応えるフェルトの笑みも淡く浮かんだだけで、すぐにモニター内にある現実に引き戻される。
 モニターに映るティエリアの姿は、日に日に脆くなっていく気がした。一時期の恐慌状態を過ぎたはいいが、目覚めてから、一切の食事に手をつけようとはしなかった。ひたすらに泣き明かし、時折浅い眠りを繰り返す。緩やかな自死といっても良かった。
 刹那も、アレルヤも生死不明の状況で、ヴァーチェとティエリア・アーデを回収したという報せは大げさでなく私たちの希望だった。先の戦いで傷ついた身体は反応に乏しく、壊滅状態のソレスタルビーイングにろくな医療設備は残っていなかったが、それでも絶対に、死なせたくなかった。もう二度と。誰一人として。
 ギリギリの状態での治療の後、意識を取り戻したと聞いたときは救われる思いだった。けれど、目覚めた彼は生きる意志を持たなかった。これでやっといける。ヴァーチェの音声ログに残っていた切れ切れの言葉が、いつまでも耳に残って離れないでいる。それが今、彼がそうある理由なのだとしたら。
 一体何処で間違えたのだろう。もう間違わないと決めたのに。今度こそ助けると。救ってみせると決めたのに、私は。
「…バカな男」
 それは生きようとしない男に対してか、もう生きてはいない男に対してか。無意識に呟いた言葉に、フェルトがこちらを一瞥する。そして静かに頷いた。





 目が覚めるとティエリアの背中にいて、夢であったことに気が付く。悪ふざけが過ぎて背負われることは珍しくなかったが、それでもこの状況に戸惑いを覚えたのは、華奢な少年然とした彼の身体にこんな力があるとは思わなかったからだ。
 しかし考えて見れば当然なのだ。ヴァーチェ―――今はセラヴィーを乗りこなし、苛烈なGにも耐えてみせるガンダムマイスターなのだから。少女のような外見に惑わされそうになるが、彼は強い。あのころが、夢だったのかと思えるほどに、今の彼は。
「……歓迎会など、許可をするべきではなかった」
「怒ってる? ティエリア」
「当然です! あなたのせいで場がめちゃくちゃだ!」
 低い声音からかなり腹を立てているのだと伺える。そうだとしても私を背負って部屋まで歩いているのだから、彼は変わったと思う。間違いなく、刹那かラッセ辺りに押しつけられたのだろうが、それでも。以前ならば真っ先に自室に戻っていただろうに。
「アレルヤ・ハプティズムは鬱状態に陥って会話が成立しない。イアン・ヴァスティに至っては28回もミレイナが結婚する夢の話を繰り返していた。それも全て、貴女が際限なくクルーに酒を勧めていたせいだ!」
「……ごめんなさい」
 しかし、容赦なく責任を追及するのは相変わらずで、そのギャップに気圧され、つい素直に頭を下げてしまった。まったく、と低く呟いて、それ以上何も言わずに口を引き結ぶ。重たい沈黙が場を支配し、私の自室まで距離は充分にある。耐えきれずに口を開くまで、それほどの時間はかからなかった。
「ごちそう、おいしかったわね」
 ああ、違う。何を言ってるんだ私は。少しだけ見えるティエリアの横顔も怪訝そうだ。
「ちゃんと食べた? おなかいっぱい?」
「……まだ酔いが回っているのか、貴女は」
 呆れきった彼の声音。絶対零度という言葉がまさにふさわしい。振り落とされないのが不思議なくらいだ。心なし腕に力をこめると、肩胛骨のあたりに胸を押しつける形になった。けれどこんなことをしても、反応してくれるのはアレルヤくらいだ。案の定、ティエリアは眉すら一ミリも動かさない。
「空腹にならない程度には、一応」
 それでも律儀に返答する辺り、彼の真面目さが伺えた。それがおかしくて、口の端をつり上げたはずなのに、意図せずにそこが歪む。つんと鼻の奥に痛みを覚え、感情が溢れ出た。彼の背中で見た嫌な夢。それを辿るように、色の濃い彼の髪に触れる。きれいな曲線を撫でると、さらさらと指の間から髪がこぼれおちていった。
「…今は、ちゃんと食べてるんだ。いい子」
 目尻に涙が滲む。思った以上に酒が回っているのか、感情のコントロールが上手くいかないようだ。嫌な夢のせいで感傷的な気分になっているのかもしれない。
「あなた、変わったわね」
 ごまかすように、すぐそばにある頭を撫で回す。煩わしがられると思ったけれど、相手は何も言わなかった。






 一切手をつけられないトレイを運ぶのももう、限界だった。素人目に見てもティエリアの身体が危ないというのは分かっていた。それ以上に、ようやく縋れた希望が目の前で失われていくのを見たくはなかった。
 一体何処で間違えたのだろう。もう間違わないと決めたのに。
「食べなさい」
 ティエリアは、視線を逸らしたまま微動だにしない。髪の間から見える痩せた首が痛々しい。
「いい加減にしたらどうなの!?」
 ぱちん、と乾いた音がした。反射的に手が出ていた。傍にいたフェルトが息を呑んだ。
 紙のように白い頬にくっきりと内出血のあとが残った。場違いに綺麗だと思った。同じ色をしたティエリアの目は、やはりこちらへ向けられない。縋ろうとする私を拒絶していた。ああ、また失うのか。静かな絶望が胸に降りてくる。
 一方で、タガの外れた場所から感情が溢れて酷い言葉になった。最低だと認識しながらも止められなかった。
「あんたがここで屑みたいに死んだところで、ロックオンの傍になんか行けやしないわよ! 彼の死を冒涜するのも大概にしなさい!」
 嘘だ。嘘だ。冒涜しているのは私。縋ろうとしているのは私。救われようとしているのは私。反吐が出るような言葉。
 それなのに、ティエリアは初めてこちらへと向き直る。うつろだった目に僅かな光が宿る。透き通った、綺麗な目。血の色。生きている色だ。
「わたし、は…」
「生きるのよ、ティエリア。今度こそ世界を変えるの」
 こんなの嘘。絶対にうそ。世界を変える気なんてない。目の前の命を救って、拾って、自己満足に浸りたいだけ。また失ってしまったら今度こそ立ち直れないから。自分の無力さをこれ以上実感したくないから。それだけ。
 私は私を救いたいために、ティエリアから死ぬ権利を奪ったのだ。
「ロックオンの望んだ世界を、作るの」
 私の嘘に騙されて、ティエリアの瞳が輝きを取り戻す。そのときの幼子のような表情はばかみたいに美しく、それだけに私の胸を刺した。隣でフェルトが嬉しそうに微笑む。純粋に彼の変化を喜べる彼女がうらやましかった。

 その日から彼は食事を摂るようになった。何度戻しても胃に詰め込み、落ちた体力を回復させようと強引に身体を動かした。その姿は必死な様を通り越して痛々しく、まるで呪いのようだと思った。
 そう。呪いだった。死ねない呪いを、私がかけた。私自身のエゴのために。自分自身の間違いを、再び見たくなかった。それだけの理由で。

 ティエリアが治療ポットを出ると聞いて、私はソレスタルビーイングから逃げた。
 この期に及んでも私は、自分の間違いを直視する勇気がなかったのだ。ティエリアを生かしたことを間違いだとは思いたくなかったけれど、死なせてやったほうが幸福だったのかもしれない、とは思う。
 やっといける。彼の声は、今も忘れることは出来ない。






「ごめんなさい」
 自室まであと少しというところになって、ちいさく呟いた。ティエリアが溜め息で応える。
「そう思うのなら今後、アルコールは…」
「違うわ。それじゃない」
 ティエリアが僅かに身じろぎしたのが伝わってくる。彼が覚えていたことに安堵し、同じだけ胸が痛んだ。
 戻ってきたときの彼は以前からは考えられないほど落ち着いていて、穏やかだった。こうなるまでにどれほど苦しんだのだろう。逃げるしか出来なかった私とは違って。
 そのきっかけを作ったのは自分だとうぬぼれる気はない。彼の根本にある強さが彼を立ち直らせたのだ。歪んだ理由は作り上げた結果も歪ませるというが、今の彼にそういった歪みは見えなかった。だから囁くように問うた。
「まだ、傍に行きたいと思ってる?」
 ティエリアはしばらく、応えなかった。あのときのように目を見ることは出来なかった。私は、それを彼に問うて何を確かめたかったのだろう。感傷に浸りたかっただけなのか。彼は強く、私の言葉程度に左右される相手ではないと―――やはり罪から逃げようとしたかったのだろうか。
 どちらにせよ答えは与えられないまま、彼との時間は終わりを告げる。見慣れた自室のドアは目の前。残念ながら時間切れだ。
「到着だ。スメラギ・李・ノリエガ」
 丁寧なフルネームの呼び方。身の引き締まるような綺麗な声音は心地よい。自室の前で下ろされて、身体が離れる。赤い瞳とかち合う。透き通った綺麗な色だった。
 私が自室のロックを外し、中に入るまでしっかりと見送ってくれた。優しさと言うよりは、任務を果たすようなまめまめしさで。彼らしさに口の端をつり上げた。再びドアが閉まり、彼が見えなくなっていく直前に言葉が重ねられる。
「…僕は、何も変わったつもりはありません」
 閉まる直前に、怖いくらいに透き通った目で彼は言った。やがてドアは閉まりきって、何も見えなくなる。心臓がすうと冷えた。罪の意識を曖昧にしてくれたなまぬるい心地に、さあと冷水を浴びせかけられた気がした。
 私は何も見えていなかったのだ。今更になって気付いた。犯してしまった罪は逃げても消えない。上塗りされるはずもない。当たり前のことだ。
 今度こそ、逃げられない。改めて突きつけられて僅かに残っていたアルコールも冷めた。

 一人の部屋で、彼の幼子のように透き通った目を思い出していた。
 あの目は今でも、唯ひとりのひとを見ているのだろうか。