意識が浮上する感覚があり、瞼をゆるりと押し上げる。唐突にオフホワイトの天井に出迎えられて、あれは夢だったのかと思う。自分の状態に戸惑いながら手を空にかざしたとき、天井とその手の隙間に不意に視線を感じた。幼い顔立ち。まるく見開かれた目に鼓動が止まりそうになる。
「僕です。ニール」
 そう言って笑う姿。濃い色の髪に、赤い瞳。今までのことは夢ではなかったのか、と思い、何よりも安堵した。目が覚めて何もかも消えて、ティエリアもいなくなっていたのではあまりにも哀しすぎる。
「よかった…夢じゃなかった」
「はい」
 そんな俺を案じるように、そっと白い指先が前髪を避け、額に触れてくる。ティエリアのその不器用な触れ方を感じたとき、俺はまた息をのんだ。思わず手のひらを取り、引き寄せると、ティエリアがバランスを崩して身体の上に倒れる。布越しに皮膚が触れ合い、更なる確信を得た。
「…あったけえ。なんで、」
 背に手を回し、更に隙間がなくなるように引き寄せると、布越しに触れる体温がいっそう鮮明に伝わる。天国で何度抱き合ってもどこか足りなかった実感が、ようやく全て埋まった気がした。そこにティエリアがいるのだと思った。ティエリアも同じであるようで、俺の身体に身を委ねながら、慈しむようにその温度を手のひらで拾っている。
「ここは、あなたのいる世界だから」
 身体を僅かに起こしたティエリアの肩越しに、時計の数字が見える。俺たちのいた場所には必要のなかったものだ。辺りを見回すと、個人用の端末や洗わないままの食器、脱ぎ散らかされた衣服など、生活感のあるものたちが様々に散らばっていた。しかし、それら全てに見覚えはない。ここは一体、何処なのだろうか。
 せわしなく辺りを見回し始めた俺を見て気がついたのか、ティエリアは身を起こして、何かを言おうとした。しかし、動きかけた唇は音になることはなく、代わりに彼の指先が、俺の着ていたシャツの裾をめくる。唐突な行動に一瞬、戸惑いはしたが、そのシャツの下にあるものを見て、彼が何を言いたいのかを理解した。
「傷、なくなってんだ…」
 ティエリアと初めて会ったときと同じような衝撃を受ける。しかし、すぐそばにいる彼のぬくもりは確かに伝わるのだ。あの、身の凍る冷たさや重い眠気は確かに経験として身体に残っているのに、ますます分からなくなる。
「なくなってはいません。あなたの身体の傷は、治療している最中です」
「どういうことだ?」
 ティエリアは答えの代わりに、視線だけで窓を見るよう促した。外はもうすっかり暗くなっており、様子を伺えるような景色は見えない。唯、間の抜けた顔をした俺と、ティエリアの姿が映っているばかりだ。ティエリアはそこに視線を注ぎながら、更に続ける。
「宿主が意識を失っている間だけ、あなたの器にさせてもらいました。拒絶反応もなにもなくてよかった。さすが双子だけあります」
 そう言って、窓に映ったティエリアが笑う。俺はますます目を見開いた。
 ティエリアの言うことが正しいというのなら、俺と瓜二つのこの身体は、つまり、
「…こっちがライルってわけか」
「その通りです」
 天国も天使も一通り見てきたが、更にこちらの想像を超えたことをされては言葉も出ない。今俺が入っているこの身体がライルのもので、その上に乗っている美少年は実は天使だなんて、気でも狂ったかと言われそうだ。思考が少しも追いつかないまま、こみあげてくる疑問をなんとか整理しようと試みる。もしこの身体にライルがいるというのなら、いっそ助けて欲しいくらいだ。痛み出す頭に手を当てながら、なんとか問いかける。
「還るって、この身体にってことか」
「違います。本来ならば何の関係もないライル・ディランディの情報を明かし、身体に干渉するのは望ましくない。彼が覚醒する前に早々に出ていく方がいいでしょう」
「だったら、どうして…」
 問いかけようとして、口を噤んだ。ここに来る前のティエリアの言葉を思い出したからだ。見せたいものがあると彼は言った。そしてここに在るのは、死んでなお頭から離れなかった一人の姿だ。
 ティエリアはそっと俺の身体から自分の身体を退けて、ベッドの傍に降り立った。浮世離れした美しさの彼を取り巻くこの部屋は、食べさしのサンドウィッチから丸まった紙屑まで、どれもが生活の匂いがする。それらを誇らしげに見回してから彼は口許だけで笑んでみせた。
「まだ、彼がいる」
 つられて身を起こした俺の頬に触れる。その指先は、俺に触れたのか、ここにはいないライルに触れたのか。はっきりとは分からなかった。分かることは、向けられるティエリアの笑顔が息を呑むほど綺麗だったこと。それだけだった。
「それは、還る理由になりませんか。あなたにとって、やはり世界は価値のないものですか」
 どうやら天国も天使も、俺を甘やかす逃げ場にはなってくれそうにないようだ。問いかけに俺は、答えることが出来ずに押し黙った。ティエリアの綺麗な笑みに、やがて哀しげな影が含まれて少し歪む。どんなに醜くとも、くだらなくとも、俺のいる世界はここなのだと、こんなとんでもないことまでして懸命に訴えてくれていた。
 ティエリアの口ぶりからして、あまり褒められた行為ではないのだろう。それでもなお、生真面目な彼がこうしてくれている。その気持ちに応えるべきなのだ、という想いがある。けれど、俺はやはり何も言えずにいた。
 ベッドから降り、窓に映ったライルの姿に触れる。外気に冷やされた窓はひやりと冷たく、天国で触れたときのことを思い出させた。この存在を理由に、再び逃げようとした世界に向き合えという。しかしそれを素直に承諾するのには少しばかりの覚悟が要った。それが出来るなら、会うこともせず金だけを送るなんていう、中途半端な繋がりを続けていたりはしない。
 迷子のような表情をつくっているライルの身体を一瞥した後、ベッドの傍に佇んだままのティエリアの方へ向き直る。俺なんかのために、秘匿事項やら何やらを色々無視してくれたのだろう。そんな相手になら、少しは本音を話したっていいかもしれない。そう思った。
「俺とライルさ、あんま仲良くなかったんだ」
 少なくとも、家族を失った後に手を取り合って生きていこうという結論には至らなかった。その程度の繋がりだ。ライルは俺から離れてゆき、俺はその距離を埋めようとするのを怠った。たった一人の家族なんて言っても、現実はこんなものだ。どちらかといえば、俺の一方的な執着に過ぎない。それすらもう、いびつに歪んでいる。
「俺はあいつが大切だけど、あいつは俺のことなんて知らない。死んだと思われてるかもしれない。昔はそれでもいいって思った。それでも、たった一人の家族だったから」
 生きていくには力が必要で、力には理由が必要だった。その理由を家族にして強引に生き延びていた。会うこともできなかった。メールの一つさえ送れなかった。それでも、少しでも繋がっていたかった。真っ当ではない生き方をするようになって、余計にその思いは強くなったように思う。
「あいつが何処かで元気にやってさえいれば、って思った。遠くても、届かなくてもいいって。見守ってる気になってた。でもさ、」
 こちらを見つめる赤い瞳を、真っ直ぐに見据え返す。この言葉を口にするのは覚悟が要った。少しの沈黙の後、ゆっくりと音にする。浅く息を吸う音すら響きそうだ。
「それってやっぱ、淋しいんだよ。気付かないフリしてただけで」
「……!」
 ティエリアの双眸が開かれる。自分に言葉が向けられたことが、全く予想外だったらしい。動揺して身を竦ませる彼を抱きしめるのはずるいと思ったが、そうせずにはいられなかった。細い身体を引き寄せ、包み込んで繋ぎとめる。耳許に囁くように言葉を落とした。
「見守り続けることに、意味はあんのか? ……教えてくれよ、ティエリア」
 俺の問いかけに、腕の中で彼が身じろぎするのがわかった。それがそのまま彼に跳ね返ってくることも承知だった。人とは関わらないようにと誰もを遠ざけ、そして俺をも遠ざけようとしている相手に、それを問うのは酷なことかもしれない。それでも聞かずにはいられなかった。
 ライルのことも、ティエリアのことも、埋められない距離がもどかしいばかりなのだ。それなのに納得した振りをして別れるなんて出来ない。だって俺は気づいてしまった。自分の中の淋しさに。
「…ごめんな」
 押し黙ってしまったティエリアの頬に口づけてから、そっと腕を解いて解放する。支えるものがなくなって不安定に揺れる身体に罪悪感を抱きながら、にがいため息を吐いた。まだ夜明けは遠く、外は見えない。その代わりに大切だった弟の姿と、哀しそうに俯くティエリアとを見比べる。
 二つとも今は、すぐ傍に触れられる位置にあるのに、それは窓に映し出された像に過ぎず、朝が来たら消えてしまう。確かなものなど何一つとして無く。自らが怠ってきた結果だと分かっていても、やりきれない思いがした。
 立っているのも億劫になって、ベッドに腰掛ける。俯き加減で、窓に映った像の消えかけた辺りをぼんやりと眺めていると、ベッドの足に何かが貼ってあるのに気づいた。
 目立たない場所に貼り付けてあったそれが気になり、わけもなく窓に映ったその辺りを注視する。値札にしては大きい。あくまで窓に映っているためはっきりとは分からないが、何故か覚えがあるような気がして、身をかがめて直接それを、確かめようとした。
「あ、」

 ―――そのとき、俺は見たのだ。部屋の照明を反射して、それがきらりと光るのを。

まさか、と思った。心臓が早鐘を打ち、息が止まるかと思った。思わず身体を逆に倒し、背をベッドに預ける。突然ベッドに倒れた俺に動揺したティエリアが、俺の顔を覗き込んできた。彼にはきっと、顔が赤くなっているのも悟られている。しかしその理由は理解されないだろう。分かるはずがないのだ。俺と、ライルにしか。
「どうか、しましたか?」
 興奮しすぎて、心配そうに眉を寄せるティエリアにキスのひとつでもしてやりたい気分だ。信じられない、そんなまさか、と疑う気持ちと、動揺と、声にならない高揚感で気が狂いそうだ。ついさっきまで最低の気分だったのに、自分の変わり身の早さに呆れる。
 俯いて垂れてくる濃い色の髪を指先だけで撫で、その後ろにある首に手を回す。そこからさあと背を撫でた後、思い切り腕に力を込めると、あっさりとバランスを崩してティエリアが再び俺の身体に乗り上げた。確かな重みと体温はまるきり人間のようだけれど、今の俺は天国も天使も信じられるような気分だった。唇から笑みが漏れてくるのを抑えられない。
「信じらンねえ。マジかよ畜生。あの野郎」
 満面の笑みで、思いつく限りの罵倒の言葉を並べ立てる。すぐ傍にいるティエリアが、怪訝そうな顔をする。その頬や鼻にキスをして、それでも飽きずに笑みがこみ上げてくる。どうしようもなかった。
「一体なに…」
「なあ。確かめるからさ、傍にいてくれよ、ティエリア」
 答えにならない言葉を耳許で囁くと、ティエリアは首をかしげながらも少し大人しくなった。息が止まりそうなほどの興奮を覚えながら、恐る恐るベッドから身を起こす。このまま身をかがめて覗き込めば、それだけで結果は出てしまう。
どれだけ金を積んでも繋がれたという実感は得られず、そのくせガキの頃の約束一つで届いた気になってしまう。剥がされたのりの跡。吐き捨てるような言葉。苦い思い出が安っぽいホログラムの虹色で塗りつぶされるような心地がした。
 息を吸うとひいと喉が鳴くほどの興奮状態のさなか、ティエリアが呆れたようなため息を吐く。起き上がってからも俺が手を離さなかったせいで、隣でちょこんと所在なげにベッドに座ってこちらを睨めつけていた。
「何なんですか、あなたはいきなり…」
 戸惑いがちに上擦る声すらいとおしくなる多幸感。まるでプロポーズをするような気分で、俺はティエリアにお願いをした。
「……俺と一緒にベッドの下を見てくれないか」
 そのときの彼の呆気にとられた顔を、感情と共にずっと刻みつけていたいと思った。
 死んでもいい、という言葉はきっとこんなときに使うのだろう。










* * *

 10年以上前の古いヒーローのステッカーが、ベッドの足できらきらと輝いている。おおよそ20歳そこそこの若い男に相応しくないものと、場所の兼ね合いに苦心が伺えた。どんな思いで彼がここにこれを貼ったのかは分からない。
 こんなステッカー一枚で距離が埋まったわけでもなく、痛みが消えるわけではない。それでも約束はまだ生きていたのだ。ライルのなかにはまだ、俺は存在していた。僅かでも繋がっているという実感が得られた。それだけで充分だった。
「俺、戻るわ」
 ―――また、生きていこうと思った。ライルのいる世界で。
 その言葉を聞いて、ティエリアは僅かに目を瞠った。しかしすぐにそれは笑みに変わる。思わず見とれるほどの綺麗な笑みだった。こんな風に笑える相手を、俺は生涯知らなかった。この子は、心の底から俺の幸せを祈ってくれているのだと、思った。
 俺はこんな風にはきっと出来ない。人間だからだろうか。そう思うと距離を感じて少し淋しい。こんなに近くにいるのに、触れれば温かいのに、些細な言動や笑い方ひとつですぐに淋しくなるからこの世界は面倒なものだ。俺が選んだのは、そういう場所だ。
 浅く息を吸って、それから言葉にして吐き出すまでにほんの僅かの勇気が要った。前々から用意していた言葉の筈なのに。先ほどまでの多幸感を引きずったまま言えていれば良かった。
「ティエリアも来ないか」
「遠慮します」
「……即答かよ」
 こちらがそれなりの覚悟を持って口にしたにも関わらず、何の躊躇いもなく切り捨てられてしまっては、こちらとしてはため息を吐くしかない。向こうも予期していたのだろうか。していたのだろう。目を瞠ってすらくれなかったことに落胆し、しかし引き下がる気はなく、隣に座っているティエリアの細い肩に手を回す。
 こちらの肩にすっぽりと収まるまるい頭から、紛うことなく体温が伝わった。ほとんど人間じゃないか、これじゃあ。そう思う俺を尻目に、ティエリアはこちらを見ないまま言葉を続ける。
「ここにいることだって、本当なら禁じられているんです。僕は情報の管理という役割を持っていますから。リジェネに頼んでようやく引き受けて貰っている状態なので早く戻らないと、」
 あまりにも饒舌に言い訳を並べ立てるものだから、かえって不自然さばかりが際立つ。きっと俺がこうしてごねるのを予想して、断るための台詞を色々と考えていたのだろう。そんなことをされると余計に引き下がり難いのだと彼は分かっているのだろうか。思いついた言葉の中で、最低なものをつい選んで口にしてしまう。彼の頑なさに爪を立てたかったのだ。
「俺よりリジェネの方が大切なんだ。へー」
「そういうことではなく! あなたはどうしてそう……ンッ」
 俺のまるきりの棒読みに生真面目に乗って、こちらを睨みつけた。言葉を口にしようとした彼の顎を取り、強引に唇を重ねる。知ったばかりのやわらかな感触と知らなかった温もりに眩暈がしそうだ。それでも相手が何かを言おうと口を開いたので、そこに舌をねじ込んでやる。噛まれる前に逃げがちな舌を引き出すと、鼻にかかった甘い声が被さった。
 やばい、と本能的に思う。以前したときは少しも欲なんてなかったのに。体温があるだけでこうも違うのか、それともベッドの上だとか弟の部屋だとかそういうシチュエーションのせいなのか、それとも。
 別れの予感の、せいなのか。
「ぅ、ん……ふぁ、あ」
 明らかにキスに不慣れな声に鼓膜が疼く。ちょっとした悪ふざけのつもりが、唾液がこぼれ落ちるのも構わず舌を追っていた。なまぬるい粘膜をなぞりながら、唇を、舌先を吸ってお互いの体液を混ぜ合った。今までしたどれよりも、長くて深いキスだった。
 名残惜しげに唇を離すと、そこから糸がのびてちぎれた。指でそれを拭ってやると、酸欠で潤んだ瞳が怪訝そうに見つめ返してくる。こういうときばかり幼くなるのは本当にずるい。とても天使になんて見えない。
 そのまま押し倒したのは本当に勢いだった。濃い色の髪がシーツの上に散らばったのを見て、我に返った。透き通った赤い瞳が、やはり真っ直ぐこちらを見つめている。それに何処か所在ない思いを抱えて、息を吐いた。カーテンを閉めるついでに窓の外を見る。まだ、空が白む気配は見えなかった。
「朝がリミットって言ったっけ」
「…ええ」
「じゃあ、朝まではいいんだよな」
 答えを待たずティエリアのシャツに手をかける。一つ目、二つ目と外している指がもつれたのを見て、初めてそれが微かに震えていることに気がついた。頭が痺れているような興奮状態なのか、緊張しているのかもはっきりとは掴めない。
 相変わらず、抵抗もせずに真っ直ぐこちらを見つめているだけの、相手に圧倒されていたのかもしれない。自分を俯瞰で見てその格好悪さに呆れたが、それでも止めるつもりはなく。
「…お前はいいのか?」
 リジェネのことなんて本当はどうでもよかった。言い訳をして俺から離れようとするティエリアを繋ぎ止めることができれば、何でも良かったのだ。傍にいてもっと色々な表情を見たかった。すぐに彼は綺麗に笑って、俺から遠ざかろうとするから。幸せを祈られるよりも近くにいて欲しい。そんなガキみたいな、切実な願いだ。
 しかし俺の願いを、彼は相変わらず綺麗に笑ってかわしてみせる。まるきり人間のような有様でも、彼の一番奥にある部分だけは触れられないのだと思った。
「あなたが望むなら」
 俺なんかのために、その身をかける理由がどこにあるのか、それが分からないままなのがもどかしい。しかし身体を犯してもそこだけは汚せないのだと、美しいままの彼をみて確信した。

 ティエリアは俺の傍に来ない。俺のためにいくら尽くしてくれても、それだけはかなわない。たぶん、最初から分かっていたことだった。それでも淋しいと思った。俺は彼が好きだったから。




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