身体だけではなく、精神が疲れても眠くなるらしい。眠るのは趣味だとティエリアは言ったが、そんな余裕もなくぶっつりと意識が途切れていったことは覚えている。今思えば、精神に異常を来す前の防衛本能だったのかもしれない。時間の感覚もなくあてどない他者を待つということが、あれほど気力を必要とするとは思わなかった。
 後頭部が鈍く痛むのを感じて無意識に手を宛がうと、くすくすと笑い声が振ってくる。誰かの気配を感じて勢いよく机から顔を剥がした。息を吸ったのと名前を呼んだのが同時だったせいで、上手く音にならなかった。
 顔を上げた途端、机の向こう側の赤い瞳と視線が重なる。全身が固まるのを自覚した。長い間誰も座ってない光景を目に焼き付けていたせいで、眼前に人がいるという光景が信じられずにいた。そんな俺を見て、切れ長の瞳がゆっくりと細められる。その瞬間までじっと見つめる。瞬きすら忘れて。
「ティエリアだと思った?」
「……ああ、」
 低く呟いて頷いてみせる。見え透いた嘘を今更吐いたところで仕方ない。その答えが気に入ったのか、顔の輪郭をなぞる癖毛の辺りを指先でいじりながら、リジェネが笑みを深める。今になって見てみると、顔のつくりは同一だが、リジェネとティエリアはあまり似てないように思う。表情のつくり方が違うのだと気づいた。
「唯の人間が、この場所でひとりでよく耐えられたものだね。驚いたよ」
「…職業柄、悪環境には慣れてるんでね」
 狙撃する隙を待ち、長い時間同じ場所に同じ姿勢でい続けることも珍しくない。死ぬ前にはもっと危険な状況に放り込まれたこともあった。昼夜もなく変化もなく音もないなんていう場所は生まれて初めてだったが、それでも眠れる時点で幾分かマシだ。
「そんなに会いたいんだ」
「悪いか」
「別に? 人間は誰かがいないと生きていけない弱い生き物だからね。仕方ないと思うよ」
 言葉の内容の割に見下したような印象の薄い、まるで動物の習性を口にするようなさりげなさで言われたせいで、噛みつく暇も与えられなかった。リジェネは頬杖をついて、やわらかく笑いながら酷薄な言葉を続ける。
「きみの場合はその『誰か』がティエリアだった。たまたま迷い込んだ場所で、優しくされたから執着しているだけ」
 一瞬、何を言いたいのか分からずに目を見開いた。しかし続けられる言葉に胸焼けにも似た怒りを覚える。リジェネの、何でもないことのような口ぶりが余計にこちらの神経を撫でつけた。
「ああ。もしかしたら、ティエリアはきみの弱さにつけ込んだのかもね。彼、きみを手に入れられなかったのがトラウマみたいだから」
「いい加減にしろ!!!」
 勢いよく立ち上がり睨みつけるが、整った顔は少しも歪まない。立ち上がった反動で座っていた椅子が倒れ、言葉の隙間に硬質の音が響き渡る。それが空気に溶けきり、再び静寂を取り戻した辺りに、絞り出すように吐きだした。
「お前に何が分かるってンだよ…」
 形の良い唇がゆるりと弧を描いている。その突き放すような笑い方に苛立った。分かったような顔をして言葉で切り捨てる態度も。しかし彼は言葉を止めない。無邪気な子どものような残酷さで。
「分かるさ。少なくとも、きみ達の関係が不毛なことくらい」
 目を眇めて嗤う様はしかし子どもには似つかない。幼いような、大人びているような底の知れなさが彼にはあった。俺はそれに静かな恐怖さえ覚えていた。
「彼しか存在しない世界でずっと生きていくつもりなのかい?」
「……!」
 ひどく透き通った赤い瞳がこちらを見つめていた。何も言えずに息を詰める俺に、畳みかけるように言葉を重ねる。
「分かっただろう? この世界が、どれだけ不安定なものか。淋しさなんてものを抱えている限り、ここで生きていくには向かない―――きみも、ティエリアも」
 そのときだった。ずっと笑んでいたリジェネの唇から唐突に笑みが消える。掴みどころのない印象から笑顔を外すと、急に淋しげにすら見えた。言葉で淋しさを否定したばかりの相手だというのに。
 白い手が伸びてきて、俺の手のひらに重なる。温度のない皮膚は天国の住人であることの証明だ。
「どうせなら、ティエリアもここから追い出してよ。……目障りなんだ。人間も、人間紛いもさ」
 手を握る力が強まる。憎しみや怒りというよりは切実さのこもった手つきで、痛いほど握られる。感情のない言葉の並べ方と、笑顔の消えた透き通った瞳に戸惑い、やはり言葉を返せずにいた。恐らく俺は、相手の意図の半分も理解出来ていなかった。
「そうすれば、僕はもっと楽しめるから」
 そういってリジェネは嗤う。けれど、無表情から作り直したせいでいつもの不敵な笑い方になりきれていなかった。淋しさの消えない口許から、ちいさくため息が漏れる。静かな書庫にはそれが悪目立ちしてしまっていた。








* * *

 その日は何故だか眠る気になれなかったのは、彼が来るのだという予感があったからだろうか。しかしそれに確証はなかったので、実際に姿を現したときには軽く驚いた。
 塩基配列の同じ僕たちは、その気になればお互いの頭の中身を覗き込むことだってできる。本来は会話すらも必要としない関係だ。その方が圧倒的に楽なのに、ティエリアは頑なにそれを拒み続け、それに影響されたわけではないが僕自身もティエリアを覗くことを止めていた。ティエリアは無駄なことを考えすぎて、僕には理解不能なのだ。覗くだけ無駄だと悟っていた。
 それ故にティエリア・アーデは面白く僕を退屈させない存在だった。しかし最近の彼は、イノベイドとして、ヴェーダの一部として淡々と使命を果たすだけの唯の人形でしかない。マイスターであった頃の彼はあんなに予測不能なことばかりしていたのに、軽い失望すら覚えていた。
 だから、ティエリアを人間たらしめていたロックオン・ストラトスが再び彼の前に現れたと知ったとき。観測者としての僕は心が躍るのを隠せなかった。僕には理解出来ないことで笑い、泣き、苦しむ、まるで人間のようなティエリアの姿を見ていると、胸のすく思いがした。
 歪んだ優越感だとティエリアは僕を揶揄したが、これは僕なりの愛なのだ。僕の半身のくせに、イノベイターとは異なる道理で生きる彼への。さだめに抗い、苦しみながら、僕には思いも寄らぬ選択をする。全く愚かで、哀れで、いとおしい半身だ。ティエリア・アーデは。
 その愛すべき半身は、瞼の下を腫らせて、しかしひどく晴れやかな笑顔で僕に結論を告げた。みっともない顔だと思いながら、足掻く彼の姿は使命や立場を言い訳に諦める様よりも僕を楽しませてくれた。僕の見たいティエリア・アーデの姿だった。
「彼の肉体が保護されている場所が見つかった。これから、彼をそこに送還する」
「へえ。結局手放すことにしたんだ」
 何故それを僕に告げるのか分からなかったが、とりあえず嗤ってやる。あまりにも望ましい結論に軽い失望を覚えた。肉体は器に過ぎない、と誰かは言ったけれど、どうやら肉体と共に僕の愛したティエリア・アーデは死んでしまったようだ。
「きみの選択でロックオンは死ぬことになる」
 なるべく彼が傷つくような言葉を選んだつもりだが、こちらを見据える赤い瞳は少しも揺らいだ様子を見せなかった。役割を受け入れた使命感からくるものと違う、意志の強さを感じて少し驚く。
「ここに留まったところで彼の未来はない」
「彼にとっては、その方が幸せかもしれないよ?」
「ロックオン・ストラトスが不幸だったとは思わない」
 きっぱりと言い切るティエリアに今度こそ驚かされた。死者の人生を語るような傲慢さを、ティエリアが持ち合わせていたとは思わなかったからだ。ロックオンが死んだことを罪悪感として抱き続けた彼が。
 彼にとってロックオン・ストラトスは救いと同じだけの傷だった。あれだけ自分は人間だと言って僕らを遠ざけていた彼が、結局人間と生きることを選ばなかったのは、心を許した相手を喪ったからだと思っていた。そして、それを咎として己の役割に還ったのだと。
 そうやって苦しみ続ける哀れな彼を興味深いと思って見ていたのだ、僕は。それなのに、彼はその咎の一部を肯定してみせた。その目に一抹の迷いもなかった。
「……随分と大それた思い込みだね」
「ああ。全ては僕の思い込みだ。だから、僕なんかが彼の人生に干渉する必要もない。彼は、彼の意志でロックオン・ストラトスになることを選んだ。彼の意志で、家族の仇を狙い撃った。それを僕が勝手な思い込みでねじ曲げることこそ傲慢だ。それに……、」
今まで張り詰めて僕を見据えていた顔が不意に緩んだ。憑きものが落ちたような、美しい笑顔だった。その様は、まるで。
「そういう彼だから、好きなんだ」
 ―――まるで、人間のような顔をしていた。イノベイドのくせに。人間であることを選ばなかったくせに。
「あはははははっ」
 思わず声を立てて笑ってしまった。やはり人間くさいティエリア・アーデほど面白いものはない。人間にもなりきれず、イノベイドにもなりきれず、抗い、苦しみ、それでも人間なんかを愚直なまでに愛している。理解出来ない。だからこそ目を離せない、僕の半身。彼に失望するのはもう少しだけ先にしようと思い直した。
 ひとしきり笑った後、意志を宿した赤い瞳を覗き込む。その目はもう笑んではいない。だからこちらも笑みを消した。
「…で、それを言うために来たのかい?」
「まさか。きみに頼みがあって来たんだ、リジェネ・レジェッタ」
 そういう彼は、おおよそものを頼むに相応しくない、まるで僕のような不敵な笑みを浮かべた。



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