未練がましく何度も閲覧スペースに足を向けたところで、そこが不在を飼い慣らすばかりだということは変わらなかった。
 いつも姿勢良くデータを閲覧している筈のティエリアは何処にもいない。落胆を覚えながらも諦めきれず、定位置へと腰掛ける。
 こうして待っていればいつか、ティエリアが現れるのではないかと淡い期待を抱いていた。
 というよりも、そうするしか俺には術がなかったのだ。こうしてティエリアが姿を消して改めて、俺には何も出来ないのだと思い知らされる。
 こちらから相手に干渉する術を一切持たないために、待つことしか出来ないのがもどかしい。ティエリアがいた頃はさして気にも留めなかったが、こうして独りになってみると、まざまざと不自由さを実感する。
 空っぽの机を何度も指で叩く音ばかりが空しく響いた。
 俺がいるから淋しくないと言った筈の彼が、俺の前から姿を消した。あの言葉は嘘だったのだろうか。
 キスなんて、しなければ良かったのかもしれない。あんな問いを口にしなければ良かったのかもしれない。今までと変えることなどなければ、ティエリアは変わらず傍にいてくれたのだろうか。
 腕の中で戸惑うように強ばった感触を思い出す。
 キスの後でこぼれた弱い吐息を思い出す。全て、鮮明に思い出すことが出来る。
 ティエリアは確かに、俺の近くにいたのだ。彼が何を思って俺から離れたのかは分からない。姿を現さない今も、無かったことになんか出来やしないのに。
「ティエリア、」
 名前を口にしたのは無意識だった。しかし、応える声はない。それでも構わずに続ける。
「聞こえてンだろ。……戻ってこいよ」
 とん、とん、とん、と何度も指先で机を叩く。
 自分の声ばかりが反響するのが耐えられなかった。何の干渉もない世界で、孤独に耐えられる時間はそう長くないと聞く。
 狙撃をするときはむしろ他者や干渉してくるもの全てを煩わしいと思っていたが、実際に何も与えられないとなると、肌が疼くばかりだ。
 静かで。
 あまりにも静かで。
 昼も夜もない空間は、独りでいるには難しい。
「俺は淋しいよ」
 届かない声は静寂に浮くばかりで、何も残らない。届かない言葉は孤独を一層際立たせるばかりだ。
 暑さも寒さもない空間の筈なのに、皮膚が泡立つのを感じる。寒い。気を紛らすものがないから、五感が色々と無駄なものを拾おうと鋭敏になる。そのお陰で、拾わなくていいものまで錯覚してしまうのだろう。
 たとえば。彼に触れた感触。体温。皮膚の下で蘇る。
 たとえば。耳の内に留まる彼の声。たとえば、彼のはにかむような笑顔。
 これらは身体に刻まれた記憶でしかない。上書きは、されない。
 新しくこみ上げてくるのは自分の痛みに似た感情ばかりだ。
 それはきっと、淋しさ。孤独。渇望。求めてやまない。感情が強まっていくにつれ、記憶の再生速度が速くなっていく。少ない記憶を何度も繰り返す。そうすることでしか時間が過ごせない。俺はこの場所を何も知らない。何も出来ない。何一つ干渉することもされることもない。だから、
「ティエリア……!!」
 この世界には彼しか、いない。
 それは絶望に等しい想いだった。そんな単純なことに今まで気づくことの出来なかった俺は馬鹿だ。
 世界をどうでもいいと遠ざけることができたのは彼がいたからだ。彼といるこの狭い閲覧スペースが俺の世界だった。それでいいと思った。心地よかったから。彼が好きだったから。彼が傍にいたから。
 しかしそれを失ってしまった今は、何処にも行きようがない。独りでは元の世界に戻ることも、死んで無になることすら出来ない。唯、俺という存在がいるだけ。いるだけでは何も意味がない。不定形の不安に苛まれるばかりだ。
 母親とはぐれて迷子になったときのことを思い出した。何も頼るものがなく、泣きわめいてここにいると示すことしかできなかった。今の俺はそれと何ら変わりない。違うところがあるとすれば、母のようにティエリアが探してくれるとは限らないという状況だけだ。
 世界なんてどうでもいい。戻れなくとも構わない。そう思っていたのは事実だ。二人でいれば心地よかった。
 しかし、二人だけの世界はこんなにも不安定で、恐ろしいものなのだと思い知らされた。
 もし、触れる相手がいなくなったら。
 もし、声が届かなくなったら。
 ―――世界そのものが消えてしまうのだ。














* * *

「いいのかい? 彼」
「……心配ならきみが見に行けばいい」
「冗談。なんでバグなんかの心配をしなくちゃならないのさ」
 笑い出すリジェネを睨めつけると、怖い怖い、と言って後ずさりをする。そのからかうような所作に苛立ちを感じたものの、表に出す気力もなかった。
 彼が自分の名を呼ぶたびに、胸を抉られるような激しい感情の波に襲われる。それをやり過ごすのが精一杯で、取り繕うことも上手くいかない。まさかこれほどまで揺らぐとは思わなかった。
 ここに来た彼が僕を知らないと知ったとき、失望と同時に安堵したのも確かだ。あのニール・ディランディは僕の知る彼ではない。執着する理由はないのだと。
 そう思っていた筈なのに、気がつけば彼の存在を心地よく思っていた。淋しいなんて感情はこの生き方を選んだとき、消えたものだとばかり思っていた。僕はここで、イノベイドとして人間を見守っていく。そう決めたのに。何故。
「いつまで泣いてるんだい。そうしていると、まるで人間みたいだ」
「……黙れ」
 袖口で涙を乱暴に拭っても、止まることなく流れ出る。どうして自分が泣いているのかも分からない。故に止める術も分からず、資料の読み込みも進められない。まがい物のくせに、こんなときばかり似ても仕方がない。
 彼といると、人間だった頃の自分を思い出せた。他者と関わり、名を呼ばれ、笑い合い、その身に触れた。それがあまりに心地よくて、無意識に彼を閉じ込めようとしていたのだと気づかずにいた。
 彼はここにいるべきではない。人間として、元いた世界で他者と関わって暮らすべきなのだ。そうしてヴェーダの望んだ「ロックオン・ストラトス」となり、計画を遂行する。世界から背を向けるなんて許されはしない。だから僕はヴェーダの一部として、彼を元の場所に送り返す。それだけが、使命だ。分かっている筈だった。彼をこの場所に閉じ込めてはいけない。
 それなのに。ここにいたい、と囁いた彼の言葉を、確かに嬉しいと感じてしまったのだ。それに気づいたとき、怖気が走った。僕の中の人の部分が、彼の未来を、計画を歪めようとしていた。
「僕はイノベイドだ。人としての僕はもう、死んだ」
「今のきみがそれを言うのかい? バグのひとつも消せなかったきみが? 確かに、ここに閉じ込めてしまえば、宇宙で不幸な死に様を晒すことはないだろうけど」
「リジェネ!!」
 きつく名を呼ぶと、ぼやけた視界の向こうでリジェネが嗤う。気がついたら僕と彼の距離がなくなり、腕をつかまれて引き寄せられた。まつげの先が触れそうな近さで、歌うようにリジェネが続ける。これほど楽しそうな彼を見るのは初めてだった。
「本当に、そんな気はなかった…? ずっと後悔していたんだろう? 彼を死なせたこと。ここにずっと閉じ込めなくてもいい。きみが傍にいて、説得してもいいんだ。過去や復讐にとらわれず、幸せに生きろってさ」
「…計画の邪魔をする気か?」
「まさか! 唯、マイスターの代わりなんていくらでもいるって言いたいだけ。どのみち計画は始まるさ。ヴェーダもイオリア計画もそんなにヤワじゃないことぐらい、きみが一番分かっているだろう?」
 リジェネの指先がそっと僕の涙を拭い、濡れた指に舌を這わせる。その舌の赤さを注視していた。疲れ切った頭にリジェネの言葉はひどく魅力的に響き、反論の言葉を紡ごうにもうまく唇が動いてくれなかった。
 ロックオンや刹那達が現れる前、何人ものテストパイロットが命を落としていったのを見た。彼らの死体を無造作にダストシュートに放り込み、今のリジェネと同じような言葉を言った研究員がいた。その研究員も新型モビルスーツの稼働実験で命を落とし、代わりの研究員が間を置かず補充された。
 精密にくみ上げられたイオリアのシステムは、誰かの死を以ても揺らぐことはない。実際に、僕が肉体を失った後も確かに存在している。そういうものであるならば、彼でなくとも良いのかもしれない。何故彼が死ななければならないのか。彼はもっと普通の、幸せな人生を生きられた筈ではないのか。自身の苦い後悔と共に、その疑問はいつもつきまとっていた。もし彼がマイスターでなくなれば、こうして苦しむこともなくなるだろうか。
「…そういうことを言うのも、僕が、哀れだからか」
 問いかけると、リジェネは目を丸くした。それを睨みつけながら、目尻に残った最後の一滴を指で拭う。何度も擦ったせいでひりひりと痛む皮膚は、指で触れるとじんわり痺れた。まるで今の僕の頭のようだ。重たくて、きちんと動かせない。
 驚きから、無表情。そしてまた笑みに戻るまで、リジェネの表情の移り変わりを唯ただ眺めていた。
「僕は、面白かった頃のきみをもう一度見たいだけ。人間なんかに興味はないけれど、きみは前の方が面白かったから」
「……本当にきみは、嫌な奴だ」
「その片割れが自分だってこと、忘れないで欲しいね」
 ひどく美しい笑い方をして、そのままリジェネは存在を消した。また眠りにいったのかもしれない。どちらにせよ興味は湧かなかった。重い頭のまま、今まで見ていたものとは別の記録媒体へ手を伸ばす。ソレスタルビーイングの活動記録の一部と、イオリア・シュヘンベルグに関することなど。
 イオリアが、己のメッセージを長い年月保存していたシステムを参照すれば、バグ扱いになっている彼のデータをヴェーダ内で長期保存することが可能になるかもしれない。リジェネの言う通り、ずっとここに置くことは不可能でも、不幸な運命から彼を守ることくらいは、もしかしたら―――。









「これは……」
 しかし、記録を閲覧している最中でぴたりと手が止まる。思わず目を見開いた。
 活動記録に混じっていたひとつのデータだった。まさかこんなところに混じっているとは思いもしなかった。僕がソレスタルビーイングにいた頃、高度な秘匿事項として扱われ、各個人の端末のみに保存が許されたデータだ。それに反対した僕を、スメラギ・李・ノリエガとロックオンが説き伏せ、秘匿事項として何重ものロックをかけるということで納得した。しかしそれを守っているものの少なさに呆れた覚えがある。
 今になってみると、これをロックの奥底に沈めるには惜しいという気持ちも理解出来た。もう、取り戻せないものだと知っているから。
 止まったと思っていた涙がまたこみ上げる。目の前に映し出されたデータが滲んで、ぼやけた。スメラギの顔、アレルヤの顔、刹那の顔―――そして、ロックオンの顔も見えなくなる。
 活動記録に無造作に混じっていた、ソレスタルビーイングの皆の記念写真は、まるでそこで時間を止めたかのような気分にさせた。クルー全員の顔を一度に保存するような行為は危険だと抗議したこと。僕のつまらない正論に、二人が眉を寄せたこと。全員は入らないから何枚も撮ろうと誰かが提案し、また揉めたこと。撮影される瞬間に、そっとロックオンが頭を撫でてくれたこと。
 全てがこみ上げてきて、涙になって溢れる。哀しいわけではない。戻りたいと願ったわけではない。唯、記憶の温かさに途方に暮れていた。どうして忘れていたのだろう。どうして、マイスターは誰でもいいだなんて思ったりしたのだろう。
 彼を閉じ込めるということは、この温かい時間を無かったことにするということだ。僕だけではない。ソレスタルビーイングの皆が彼と過ごした時間を、彼が作り上げた絆を、すべて無かったことにするということだ。
 僕が見守っていこうと決めた人間は、彼が見せてくれたものだ。彼以外の誰かがいるソレスタルビーイングは、僕が命を賭したそれではない。僕のいた世界には、彼がいなければ意味はない。彼がいたから、ここに来ても大丈夫なのだと思えた。
「…っ、うっ」
 嗚咽が漏れるのを止められないまま、記録媒体の読み込みを中断する。どうすべきかという答えはもう出ていた。
 ここで彼を閉じ込めたら彼はロックオンでなくなる。それは僕が僕でなくなるということだ。どうあっても、ニール・ディランディの幸せを考えられないことを哀しいと思った。
 それでも、ティエリア・アーデには、ロックオン・ストラトスが必要だった。どうしようもなく。今の僕という存在をかたちづくるには、あの記憶が必要なのだ。やわらかい笑顔。与えられる体温。揺さぶる言葉。それらは永遠に上書きはされなくとも、それだけで僕は生きていける。生きていこうと思った。それは淋しさよりも強い決意だ。
 彼を世界に戻す。計画のためではなく、この場所を選んだ僕自身のために。
 僕は彼が好きだった。僕には彼が必要だった。
 だから、今の彼の傍にはいられないのだと、分かった。












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