ティエリアの学習能力は即座に発揮され、彼が11冊分の記録媒体を読み終わる頃には読書が随分と様になっていた。昼も夜もないような空間なので、彼が読んだ本の数でしか時間の経過がはかれず、その間、飽きずにティエリアをずっと眺めていた自分に驚く。
 真剣に記録をさらっているらしいティエリアの邪魔をするのは躊躇われたが、遠ざけられないのを許されたのだと思うことにした。せめてこちらに読む本があれば少しは不自然でないのだろうが、アクセス権がないお陰で、手元の本はすべて真っ白だ。
 あまりにも手持ち無沙汰だったので、俺にもアクセス権をくれと雑談混じりに言ったとき、赤い双眸を白いページから離さずに彼は頷いてみせた。
「いいですよ」
 どうせ断られるだろうと思っていたから、あっさりとした返事に思わず目を瞠った。少し遅れて顔を上げたティエリアと視線が重なり、彼はフリーズした俺を怪訝そうな顔で眺めた。慌てて笑みを浮かべ、感謝の言葉を述べる。不意打ちだったせいで、思考が上手く追いつかない。
「閲覧したい内容を僕に言ってください。許可出来る範囲の情報ならアクセス権をお渡しします」
「…何処までなら許可されンの?」
「それも秘匿事項です」
「そっか。了解」
 雑談の中でも時折、秘匿事項という言葉が出てくる。それを淡々と告げる彼の様は、初めて会った頃の印象を思い出させた。それなりに話すようになったとはいえ、こういう場面での馴れ合いはナシということなのだろう。残念に思う一方で、区別がきちんとしている態度は好ましいと思った。
 情報が足りないことに焦り、せめて少しでもと情報源たる他者との接点を求めていた筈なのに、気がつけばすっかりこの立場に甘んじてしまっている。疑わず、求めず、唯ただ受け入れる。それは多分諦めでしかない。
 俺のそういう態度を知ってか知らずか、原因を探ろうとしているティエリアだけが一生懸命だった。手段がないからだ、と何度も内心で言い訳をしながらも、気がつけば、そのひたむきさに罪悪感を覚えるようになっていた。
 多分俺は、彼が思うほどに、元の場所に価値を見いだしていない。この場所が天国だと知ったところで、そんなものかと諦められる程度だ。ティエリアが俺を元に戻すと言ったときの、あの赤い瞳ほどの意志の強さは、生憎持ち合わせていなかった。
 だからこそ余計に、いくつもの記録媒体を読み込んでは、時折もどかしそうに苛立つ彼の様子に引け目を覚えてしまう。何故、彼が俺のためにそこまでするのかも分からなければ、自分のことだというのに手を貸すことも出来ない。礼を言うタイミングすら逸していた。
「お前の資料、半分こするとかは」
「……気持ちだけありがたく頂きます。僕は大丈夫ですから」
 できるだけ軽く言ったつもりだったが、生真面目な切り返しに何も言えなくなる。アクセス権を求めた理由の殆どが一瞬で却下されては流石に少し落ち込んだ。そもそもこの場所が何であるかも分からないのだから、閲覧したい内容と言われても思いつかない。死んでまで明日の天気や社会情勢などに興味もない。考えれば考えるほど、自分の執着のなさに気づかされるばかりだった。
 ―――ああ、でも、あいつは。
 そしてため息を吐く一瞬に、フラッシュバックのようにひとりの姿が浮かぶ。執着がない、と結論づけるのを押しとどめるように、ずるく思い出されるから嫌になるのだ。あいつさえいなくなれば、未練などないと切り捨てられるのに。全てを諦めることが出来るのに。
「個人情報、とかは…」
 口に出すと、ティエリアの眉間の皺が増える。もうその表情だけで望みが薄いことが分かり、動きかけた舌を悔やんだ。薄い唇から、抑揚のない説明が述べられる。
「著名人などの、一般的に流布している情報なら許可出来ますが……個人のプライベートが絡むとかなりの制限がかかります」
「…だよなぁ」
 予想通りの答えとはいえ、思わずため息を吐いた。一瞬、身内だからと食い下がるべきか迷ったけれど、こういうときばかり身内面をして良いものか、分からなかったので飲み込んだ。結局、俺の執着などその程度なのかもしれない。
「すみません。先ほどから、断ってばかりで……」
 不意にティエリアの表情が弱々しく緩む。淡々と説明してたように見えて、彼なりに思うところがあったらしい。俺のあからさまな落胆を気にしているのか、俺以上に落ち込んでいく有様に慌てた。
 良くも悪くも彼は生真面目だった。知り合ってそれほど長くはないが、その中で知った彼らしさに苦笑する。放っておけばいつまでも落ちていきそうな相手の気を逸らすため、強引に話題を変えた。
「じゃあ、お前のこと、とか」
「…え、」
「ティエリアのこと、教えてくれよ。それは秘匿事項か?」
 またティエリアが目を瞠り、幼い表情を見せる。整った顔立ちに見とれることもあるが、俺はこういうときの素の表情が一番好きだった。彼がこういう顔を見せるとき、胸がすくような思いがする。他者とやりとりをする純粋な楽しさを、思い出せるようで。
 この言葉も、気を逸らすという意味以上に、彼を知りたいと本当に思っていた。生真面目で、ひたむきで、そのくせ読書の方法も知らない。美しいかたちをしているくせに、照れたり笑ったりすると可愛い。今まで接してきた誰にも似ていない、不思議な存在だった。もしかしたら本当に天使なのかもしれない。ろくな生き方をしていなかった俺のために頑張るという時点で、相当変わり者であることは確かだろうが。
 ティエリアの唇はしばらく動かず、その沈黙のさなかで、秘匿事項だと拒まれることを覚悟していた。けれどそういった旨を告げるときの彼は躊躇いも間も与えなかったから、迷っている様子は珍しいと言えた。
「……僕は、ここにある情報の管理人をしています」
 開いていた本を閉じてから、慎重に言葉を選ぶようにして口を開いた。分かるような分からないような返答だったが、ティエリア自身が口にしてくれたことが嬉しかった。大げさに見えるほど相づちを打って、笑んでみせると白い頬がほんのりと赤く染まる。生真面目な様よりも、落ち込む姿よりも、こういった表情を素直に好きだと思った。
「図書館の司書みたいなもんか」
「はい。こういった閲覧よりも管理が主な役割です」
「リジェネも?」
「その筈ですが…彼はあまり熱心でないようです。あなたの前に姿を見せたのも珍しいと思います。普段は眠ってばかりで」
 言われてみれば、ティエリアとは違い、リジェネが本に触れている姿を見たことがない。それどころか、あれ以来リジェネに会っていなかった。
 気になりはしたものの、空間を無視したようなこの場所では探すのも難しく、右も左も分からない俺は閲覧スペースで大人しく座っているしか出来ない。そこにはティエリアがいつもいたから特に気にならなかったけれど、俺はずいぶんと不自由なところにいるのだと改めて思った。
「…天使でも眠るんだなぁ」
 笑い混じりに感想を呟くと、ティエリアが目を見開いた。所在なげに視線をうろつかせてから、感情を抑えた声で切り返す。不機嫌なのではなく照れているせいなのだと、濃い色の髪からこぼれる耳が赤くなっているので気づいた。
「何ですか、天使って」
「だって、ここ天国なんだろ? 天国に住んでるなら天使。間違ってない。お前、そんな顔してるしな」
「……どんな顔を」
 眉間に皺を刻んで低く切り捨てる裏で、彼の動揺が悟られおかしくなった。少しからかってやりたい心地になって、あまり良くない類の笑みを浮かべたまま続ける。
「可愛い顔ってコト」
「からかわないでください!」
 照れているのを隠すこともできず、顔を真っ赤にして立ち上がる。その余裕のなさがおかしくて、思わず笑い声を立ててしまった。これではまるで彼の言う通りだが、一応否定はしておく。
「からかってねえよ」
 勢いで立ち上がったままの彼に笑いかけると、彼は困ったようにやはり眉を寄せて、深くため息を吐いた。手元の本には視線を落とさず、背筋の伸びた綺麗な姿勢のままじっとこちらの目を覗き込む。赤い透き通った瞳に見つめられ、胸の底がざわつくのを感じた。そういえば、こうしてまともに向かい合ったのなんて、数えるほどしかないのだと気づかされる。 
「基本的にここでは、睡眠も食事も必要ありません。眠るのは趣味のようなものでしょう」
 唐突に話を戻されたのは、彼自身の困惑によるものだろう。一瞬、何のことを言っているのか分からなくて考えてしまった。会話運びの不器用さを微笑ましく思いながら、まだ赤みを残る頬の辺りを見つめている。
「夢とか見るのか」
「それはちょっと…僕は、あまり眠らないので」
 淡々とした口調も、無表情も、完全にいつもの調子を取り戻しているように見えて、そこだけ先ほどの名残があった。そういう様を可愛いと、素直に思った。
「他にも眠っている奴とかいねえの」
「…いえ。ここには、僕とリジェネしかいません」
 そういうことを言うときばかり、彼は笑ってみせる。少しぎこちなさの伺える、作り慣れていない微笑はかえって感情を滲ませてしまうので、何を言っていいのか分からなくなった。なるべく驚いたことが悟られないよう、笑みを貼り付けたまま更に問いかける。
「本当に、他には誰もいないのか? 俺みたいなのも…」
「外とは、関わらないようにしていますから」
 突き放すような言い回しとやさしい笑い方を、唯、淋しいと思った。
 元の世界に未練などない、と繰り返した俺自身が、そんなことを思うのは勝手かもしれない。けれど、そう思わずにはいられなかった。
 彼が本を読んでいるのを眺めるのが好きだった。背筋を伸ばして本に視線を落とすティエリアの姿は、触れてはいけないような美しさがあった。だから最初は黙って眺めていた。言葉を探す必要もなかった。
 本人は真似事と揶揄したけれど、恐らく俺は、彼が本を読んでいるときの、外界から遮断されたような空気が好きだったのだろう。喩えるならばスコープを覗くときの、世界に標的と自分しかいなくなったようなあの感覚に似ている。それは外の世界に煩わされることのない、美しい孤独だ。同じものを俺は、ティエリアの中に見ていたのだと気づかされた。
「淋しくねえのか」
 それなのに、こんなことを問いかけるのは矛盾している。けれどそうせずにはいられなかった。だって俺は、知ってしまった。頬に残るほのかな赤みも、上ずった声も。見開くと幼くなる切れ長の瞳も。言葉をかけるとこんなにも色々な表情を見せるくせに、なかったことにして突き放そうとするのは何故なのか知りたかった。だから、問いかけた。
「いいえ」
 彼は笑みを浮かべたまま、迷い無くそう応えた。テーブル越しの距離は遠く、落胆を隠して笑い続けるのに苦労する。予想はしていた筈なのに、ひどく傷ついている自分が笑えた。淋しいと言われたところでどうすることも出来ないくせに。
 しかし、その先に続く言葉は殆ど予想していなかった。彼も、口にするかどうか少し迷っていたようで、先ほどの応えとは違い少しの間があった。
「今は、淋しくありません。……あなたがいるから」
 そう呟いて、ティエリアがまた嬉しそうに笑った。先ほどの作り笑いとは明らかに違う、やわらかな表情に目を奪われる。優しい弧を描いた唇も、白い頬に映るまつげの影にさえも、何もかもに見とれた。彼に礼を言われたときを思い出させたが、これはその何倍もの破壊力があった。
「……ッ」
 完璧に不意打ちだ。そのお陰で頬に血が上る。恐らく相手にも悟られているだろう。みっともないと思いながら、抑えることなんて出来そうもない。
 茶化されたのならまだいい。何の意識もしていないだろう言葉に、これほどまで動揺させられるなんて思ってもみなかった。耳許でざらざらと流れる血の音が煩わしい。いっそ先ほどの俺のように笑い飛ばして欲しいのに、ティエリアは俺の態度を怪訝そうに眺めているばかりだった。
 椅子から立ち上がり、テーブルの向こう側へと身を乗り出す。少しでもこの間にある距離が縮まればいいと願った。顔が赤くなっているのを自覚しながら、机の上に乗っている彼の手のひらの前へ、自分のそれを持ってくる。指先が触れるか触れないかのところで止まり、一番長い中指が距離を持てあますように僅かに動いた。
 こみ上げてくる感情を確かめずにはいられなくて、うるさく鳴り続ける胸の辺りから声を絞り出す。俺はここに来て初めて、受け入れる以外のことをしようと思った。不意に立ち上がった俺に戸惑っているティエリアに、意を決して声をかける。声が上ずって震えそうで、簡単に可愛いだなんて言えた、先ほどの自分が心底羨ましい。
「さわっても、いいか」
 いつもテーブル越しに眺めているばかりだった姿に、手を伸ばす。唯それだけなのに、禁忌を犯すような感覚になったのは何故だろう。ティエリアの触れそうな中指もやっぱり僅かに動いて、その気持ちの揺れを伝えるようだった。
 赤い瞳がまるく見開かれる。その幼く見える顔に、緩やかな曲線を描く頬に口づけたい。欲情ではなく、ひどく神聖なものに触れる心地だった。いつも俺は彼に見とれていたのだと思い知らされた。
「…はい」
 ぎこちなく、ゆっくりと縦に動いた頭は少し怯えているようにも見え。机一つ分の、僅かな距離を縮めるのだと改めて思い知らされた。多分、触れたら何かを変えてしまうのだろう。それだけはおぼろげに分かっていた。けれど止めるつもりはなく。
 そっと、中指だけを伸ばして彼のそれに触れる。やわらかいまるみの輪郭は辿れたが、そこに熱はなかった。ここは天国なんだろう、と冗談めかして言った自分の言葉が思い出される。やわらかさも、皮膚のすべすべした感触もそこにあるのに、温もりだけはない。それを確かめるように手を握りこむと、ぴくりと彼が身じろぎしたのが伝わる。力を込めすぎただろうか、と慌ててやさしく指先で撫でると、少しずつ彼の手から力が抜けてきた。笑いかけて、何度も手の甲を撫でてやる。触れると俺の皮膚にぴたりと吸い付いてくるそれは、触れると心地よい。
「あったかくないんだな、やっぱり」
「変、ですよね。……ごめんなさい」
「謝ることねえよ。そういう場所なんだろ」
 無意識に場所のせいにしてみたが、それ以上に、やはり俺は死んだのだと改めて突きつけられた。刺された瞬間も、腹から流れていく血を見ても、ティエリアに天国なのだと言われても、はっきりと実感は持てなかったのに。
 この身体に血が流れる感覚はあるけれど、触れてもぬくもりを交わすことは出来ない。それは淋しくないと言ったティエリアと同様に、哀しいことだと思った。確かめるように少し握る力を強めても、やはり温度を確かめることはできない。
「あの、本当に、」
 ティエリアが不安そうに覗き込んでくるのに気づいたので、テーブル越しに反動をつけて唇を押しつけた。手を握ったままの不自然な姿勢から、小さい机を乗り越えるように、めいっぱい身体を伸ばしたせいで背筋が痛んだ。けれど、ティエリアがあまりに不安をあらわにするものだから、何とかして宥めてやりたいと思ったのだ。
 不意打ちのキスだったので、口の端を掠めるような不格好なかたちにしかならなかったが、それでもティエリアが目を丸くするには充分だった。その表情に安堵した自分に気づき、宥めるよりもごまかしたかったのかと思う。触れたら何かが変わると思ったのに、実際に触れるともっと不安になるなんて知らなかった。確かめるように力を込めてみたり、触れ方を変えたりして、どうにか存在を確かめる。
「これは…どういう、」
「言っただろ、さわるんだよ。お前に」
 目を丸くする彼に、低い声で囁いた。殆ど音になるか否かというボリュームだったが、それでもこの距離では充分に届くだろう。
 ティエリアも俺も、ひとりなのだ。だから確かめずにはいられない。どうせ眺めているだけでは満たされなかった。淋しくないのか、という問いかけは、自分に向けたものだったのだと、今更になって気づく。
 俺とティエリアの間にあった机を越えて、ティエリアの目の前に立つ。机越しに座っているのでは気づかなかったが、思ったよりも背が高い。そっと背中に腕を回して包み込むと、やはり身体がぎこちなく強ばった。その緊張を解くのに何度も背を撫でる。そうすると少しずつ力が抜けてくるのだが、時折首筋や髪などに触れてみると、また緊張が走ってしまう。他人に触れられることに、本当に慣れていないのだろう。それでも、俺にそれを許してくれたのが嬉しかった。
「…ティエリア」
「はい?」
 俺の肩に顎を乗せて収まっていたティエリアが、呼び声に応えて頭を動かす。それを手のひらでゆっくり肩から外し、戸惑うように覗き込む双眸の上、額のあたりに口づけた。濃い色の髪の奥に隠れた白い額のまるみを唇で辿ると、また身体が強ばっていく。それを知るたびに何度も背を撫でて宥めた。ティエリアが息をのむ音が聞こえた。
「ん…」
 唇を下にずらしてゆくと、ちいさく息を漏らした場所に辿り着く。ティエリアもそれを拒まなかったので、やわらかい粘膜の感触を長い間確かめていた。キスなんて初めてでもないくせに、眩暈がしそうな感覚に陥っている。そんな自分を俯瞰で眺めながら、俺はティエリアが好きなのだと思い知った。
 しかしそれを言葉にするのは躊躇われた。初めて彼と会ったとき、言われた言葉がずっと引っかかって離れずにいたから。
 ―――僕が、責任を持って元の場所に送り返します。
 彼が俺を送り返す、ということは、二人でいられないということだ。これほどまで近くにいる相手と、離れなければならないということだ。分かっているつもりでも、彼に触れてしまった。分かっている筈のティエリアも、俺を受け入れた。もう引き返せないのだという実感があった。
 強く身体を引き寄せ、耳許に唇を寄せる。遠い世界よりも、この存在がいとおしいと思うのは、間違いなのだろうか。俺は戻るべきなのか。彼を望んではならないのか。何も知らない俺にはよく分からない。分からないまま囁きを落とした。
「ずっと、ここにはいられないのか」
 彼が息を詰める音が聞こえ、身体が石のように強ばっていくのが分かった。

 ―――そのときから、ティエリアは俺の前から姿を消した。






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