天国は思った以上に退屈な場所だった。
書庫に収まっている大量の本はどれも中身が真っ白で、読むことが出来ない。ティエリアが熱心に中を読んでいる姿を見かけるので、どれかに当たりはあるのかもしれないが、ここしばらく探してみても見あたらなかった。虱潰しに探すにしても、この書庫の本の量は膨大過ぎて到底無理だ。結局、本棚を3列分ほど触ったところで諦め、真っ白な本を片手にティエリアを眺めていることが多くなった。リジェネはあのとき以来、俺の前に姿を見せることはなかったので。
この書庫は本の量に比べて、それを閲覧するスペースは極端に少ない。ティエリアはいつも同じ場所で本を開いては、熱心に読みふけっていた。ピンクのカーディガンにベージュのスラックスという、おおよそ天国の住人らしくない格好のせいで、何処かの公共図書館にそのままいそうな姿だと思った。
しかし、少し離れたところから覗き込んでみても白紙にしか見えないその本を、ページを繰ることもせず熱心に眺めている有様は、読みふけると言って良いものか迷う。それに気づいたときには、首をかしげずにはいられなかった。彼の横顔は真剣そのもので、何かを読み取っているようにしか見えないから、余計に不思議に思う。
「その本、面白いのか」
声をかけると、ティエリアは少し遅れて顔を上げた。俺が目の前にいたことに気づかなかったらしく、赤い瞳が驚いたように見開かれる。話しかけてはまずかったか、と一瞬だけ後悔したが、これ以上真っ白いページを繰って弄ぶのも退屈が過ぎた。一向に劣化した様子を見せない、新しすぎる白い紙を指先でたわませながら、机の向こうの少年に笑いかける。
「ずっと同じページばっか見てる」
真っ白いページを指さして指摘した途端、ティエリアの顔がほんのりと赤く染まる。意外な反応に今度はこちらが目を丸くすると、カーディガンからはみ出た白い手が白いページの上に乗り、ぱらぱらとめくり始めた。
しかし乱雑に剥がすようなその様は、どう見ても本を読んでいるようには見えない。意図の読めないその行動にしばし見入っていると、上ずった声が重なる。気がつけば、濃い色の髪から覗く耳すらも赤くなっていた。
「ページをめくらない、というのは、その……おかしいのですか」
「ああ。でも、それは早すぎ。普通はもっとゆっくり」
ついでに指摘してやると、一時停止したようにティエリアの指先がぴたっと虚空で止まる。ぺらりと音を立てて指先から離れたページが落ちていき、それが俺の手元にあるものと同じく真っ白であることが見てとれた。
どうやらティエリアは本を読んでいるのではなく、読書の真似事をしているだけらしい。何のために、と思いはしたが、思い切り動揺している様子のティエリアを追及するのも躊躇われた。それに、先ほどまでのティエリアの真剣さは、どう見ても格好つけて読書の真似をしているだけとは思えない。やはり、この白紙の本には何かがあるように思えてならなかった。
「本、読んだことないのか」
なるべく嫌な印象を与えないよう問いかける。しかし、気を遣わないまでもこのご時世、紙媒体の本を読んだことがない人間はそれほど珍しくもなかった。俺の場合は故郷にまだそういう文化が染みついていた(今時、紙媒体の本が集まる公共図書館が生き残っていたほどの場所だ)ゆえに、まだ本というものに馴染みがあったが、今はそうでない地域の方が多いだろう。
紙媒体には紙媒体の良さがあるが、デジタルの便利さには適わない。紙媒体の本が、アンティークとして用いられ始めているという噂を聞いたときには驚いたが、今のティエリアの扱い方はそれに近い。どこぞの国の成金趣味の親父が、ティエリアのように本の読み方に四苦八苦している様を想像するとなんだか笑えた。
「普段は直接的なデータでのやり取りが殆どで…何度か紙媒体の本に触れましたが、合理的ではないと判断して、こういった形に」
「確かに、いちいち文字を追うのはまだるっこしいか。つーことは、これはレプリカか?」
「そのようなものです。本の形を模した、記録媒体とでも言いましょうか」
「ふうん」
そういうことならば、中身に何も書いていないのも、ページをめくる必要がないのも、ティエリアが真剣な顔をしていたのも頷ける。紙や表紙の感触まで精巧に再現してあるが、これは電子データを収録している記録媒体に過ぎないのだ。一通り眺めても見つけることは出来なかったが、どこかに中身を読むためのスイッチがあるのだろうか。細い糸で編まれた栞を引っ張っても無反応だったので、軽い落胆を覚えた。
「無駄です。あなたにアクセス権はありませんから」
「…けち」
俺の目的はとうに読まれていたらしく、先回りしたティエリアがきっぱりと切り捨ててみせる。真っ白なページに再び視線を落としたティエリアは、先ほどの焦りも照れも微塵も感じさせなかった。唇を尖らせる俺を視界に入れず、じっと集積したデータを探っている(多分)。それでも、ページをめくるタイミングに気を遣っているのか、紙の端に引っかけた指が時折手持ち無沙汰に揺れることだけがおかしかった。
「どうして、こんな本の形にしたんだ?」
「……言いたくありません」
ぽつりと、ティエリアが呟く。感情を抑えた響きや言い回しに引っかかるものを感じたが、それ以上を探るのも憚られて、そろそろめくったらいいんじゃねえの、と間の抜けた指南をして終わった。本のページの白に似た指先の色と、そのまるみに見とれる。彼は、姿勢が良いのもあるのだろうが、ページのことを除けば読書がひどく様になっていた。本を読んだことがないというのが信じられないほどだ。このまま切り取って、故郷の小さな公共図書館に置いていってやりたいと思った。
「人間の、真似をしたくて。……忘れないために」
しばらくの沈黙の後、思い出したようにティエリアが口にする。それが、俺の問いかけへの答えだと気づくのに、しばらくかかった。不器用にページをめくった後、顔を上げてこちらを見つめた。切れ長の赤い双眸が細められる。それは笑みのかたちをしていたが、何処か淋しそうに見えた。先ほどの突き放したような言い方と重なった。
「でも、真似すら上手くできませんでした」
人間ではないのか、と問いかけようとして、ここは天国のようなものだという彼の言葉を思い出した。正しき行為をした魂が、天使となって天国に住まうことができる―――なんて、子どもの頃に聞いたような与太話をそのまま信じているわけではないが、この非現実的な空間の中にいると納得できるような気がした。
刺された筈の傷が跡形もなくなっているのも、それなりに長い間居るはずなのに、空腹も眠気も感じないのも、人間と同じ時間のなかにいないということなのだろう。順応性が恐ろしく高い自分に戸惑ったが、それだけ以前に未練がないのだと思い至り、納得した。
熱心に俺がここに来た原因を探っているティエリアを、他人事のように眺めている。どうにもならない場所で不条理に暴れるのも無駄だと思うが、この冷め方もまともではない。ティエリア自身の遠ざけるような言葉を思い出した。一体、どうあれば人間らしいのだろうか。
「…笑えるでしょう」
薄い唇の端を歪めて、ばらばらと乱暴に大量のページをめくってみせた。今までの印象とは異なる、自棄になったような冗談のやり方を少し痛々しく思った。
「笑わねえよ」
ページをまともにめくることが出来れば人間なのか。世界に順応出来れば人間なのか。俺にはさっぱり分からないので、ティエリア自身の言う滑稽さを笑う資格などない。意外そうにティエリアの双眸が見開かれ、俺はそこに笑いかけた。
初めて会ったときから思っていたが、ティエリアが驚くと幼くなって、整っているが故の冷たさが薄れて案外可愛く見える。記録媒体を本のかたちに模すよりも、その方がよっぽど人間らしいと思うのだけれど。
「地元の図書館にいそうだって、お前。案外フツーに」
俺は感じた印象を素直に口にしただけだった。他意も何もなかったのだ。それなのに彼は、赤い瞳をいっそう丸くさせて。それから、とても嬉しそうに笑った。リジェネのそういう表情は何度か見たが、何の衒いもないティエリアのそれは初めてだった。
「ありがとう」
白い頬をわずかに赤らめて、切れ長の瞳をゆるやかに細める。形のいい唇が弧を描き、囁くように礼を言う声音がどこか甘い。生真面目そうな印象があったせいか、やわらかく笑うと氷が溶けたように思えた。息をのむほど美しく、しばらくの間、見とれて何も言えずにいた。
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