彼自身の状態(データ)は驚くほど安定していたし、僕が仕掛けた異常にヴェーダが気づいて干渉してくる様子もない。しばらくは大丈夫だろうか―――そう安易に結論づけるのは躊躇われたが、原因を解明するために少しでも時間が欲しかったのが本音だ。
ごく簡単なヒアリングを行ったところ、彼は自分の年齢を21歳と言っていた。ソレスタルビーイングに来る前であり、僕のことを知らないのも頷ける。ニール・ディランディは十代の頃にスポーツ射撃の世界で一部話題になったものの、20歳前後に消息不明になり、それ以降表舞台から姿を消している。死んだ筈だという彼の言葉も、恐らく真っ当な事故などではないのだろう。ヒアリングでその点に触れたとき、うすい膜を張ったような笑みでごまかされてしまった。そういうところは相変わらずだ。
書庫の一角に仕舞っておいたニール・ディランディにまつわるデータを手に取る。分厚い事典をかたどったそれにアクセスしながら、無意識に口許が緩んでいるのに気づく。その気になればいつでも閲覧自体は出来たのだが、彼のいないところでそれをするのはずるいことのように思えて、ずっと避けていたのだ。もしかしたら、思い出すのが怖かったのかもしれない。人間として生きるという選択肢を捨てたことを、後悔したくなくて。
―――人間なんだからな。
彼のくれた言葉を思い出すと、少しだけ胸が痛む。僕は彼の言ったようにはきっと、生きられてはいないだろう。今のこの状況を、生きていると呼ぶべきなのかすら迷う。それでも、信じた道をがむしゃらに進んだ結果がこの場所なら、正しいのだと。そう思いたいのだ、僕は。
彼が僕を見たらどう思うだろうと、ずっと考えていた。けれどこの場所に来た彼は、僕のことを知らなかった。発生したバグがロックオン・ストラトスのかたちをしていると知ったとき、僕はなにかを期待した。それはきっと、望んではいけないことだった。
だから、この8年間のズレを知ったときは落胆よりも安堵の方が強かった。本当に僕の願いが叶ってしまったら、きっと―――今の僕ではいられなくなるから。
緩む口許を抑えながら、彼を元の場所に戻す方法へと思考を切り替える。必要以上に彼には触れない。干渉もしないと決めた。なまじっか内部データである僕が干渉して、彼の存在(データ)に影響を及ぼすのは好ましくない。そして彼を戻すことが出来れば、この出会いは無かったことになるのだから、何も残さない方が良いのだ。
「天国なんて言葉、どこで覚えたんだい? ティエリア」
不意に声をかけられ、閲覧していたデータへのアクセスを反射的に切った。固い表紙がばたんと閉じる音と共に意識を外に向けると、データを覗き込もうとしていたリジェネの薄い笑みにかち合う。ハッキングに失敗したことを残念そうに振る舞いながらも、リジェネは笑っていた。彼の笑みは僕にとって不快以外のなにものでもなかった。
「…何か用が?」
「別に? 個人的に興味があるだけさ」
そう言って、彼のデータに手を伸ばそうとした手を払うと、けち、と呟きながらリジェネはまた笑みを深めた。それに神経がざらつくのを感じながらも、一方でこんなに楽しそうなリジェネ・レジェッタを見るのは初めてかもしれないと気づく。僕と共にヴェーダの一部になったものの、彼は積極的に外界の情報と関わろうとしなかった。唯、ヴェーダの奥で眠っているか、たまに僕に話しかけるか、それくらいだ。よりにもよってそんな彼が、ロックオン―――今はニール・ディランディだが―――には興味を示した。と、言うよりはニールに接している僕に、だろうか。どちらにせよ好ましく思えという方が無理な相談だ。
事典のかたちをしたデータを両手に抱いて胸へ押し当て、きつくリジェネを睨めつける。いつまで彼が彼の存在を保っていられるかも確証がないのに、気まぐれで邪魔をする相手に構っている暇はない。
「ヴェーダの内部は秘匿事項だ。部外者に話すわけにはいかない」
「だから、天国? そんな回りくどい嘘なんてつく必要なんてないのに。あんなの唯のバグだろ。消せばいいじゃないか」
「……ッ!」
リジェネの指摘に言葉を詰まらせる。詰まらせたのは、本当はそうあるべきだと分かっていたからだ。
ヴェーダを正常に機能させるために、不具合の可能性となるバグは一刻も早く除かねばならない。実際、本来ならば即座に稼働する筈の修正プログラムを僕が一時的に止めているために、ニール・ディランディはヴェーダ内部でも存在しうる。
イノベイドでも何でもない彼は、本来ならば、この場に迷い込んだ時点であっさりと駆除されてしまうような、小さなバグに過ぎないのだ。それをわざわざ手間をかけて生かしているということが、リジェネにとってはおかしくてたまらないらしい。巨大なデータの一部に過ぎない僕の、欠片となって残った人間くささが。
彼がまた手を伸べたので、慌てて事典を抱く腕に力を込める。しかし予想に反して、彼の指先は僕の顎に触れた。まつげが触れそうなほど顔を近づけて、焦点が合わなくなっても僕は彼を睨むのをやめなかった。ゆるい弧を描いた唇がひどく近づいて、やがて僕の耳許に囁きかけた。
「ここを書庫に模したのは誰の影響?」
「…問題はない筈だ」
「別に嫌なわけじゃない。きみが哀れなだけさ」
「きみに、哀れまれる謂われはない」
「そう?」
リジェネは笑みを消さないまま、すぐに僕の傍から離れた。通り過ぎざまに彼の指先が顎から離れたかと思うと、唐突に気配が消える。また何処か、ヴェーダの奥深くで眠るつもりなのだろう。いつも彼はそうしている。
僕の矛盾を指摘するだけしておいて、傍観者を決め込むリジェネの態度に軽い苛立ちを覚える。それはきっと、不安だったからだ。僕は、僕自身の選択が揺らいでいるのを自覚していた。ニール・ディランディという小さなバグの存在によって。
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