目が覚めたとき俺は、薄暗い書庫の中にいた。天国でも地獄ですらなかった。
 何か夢を見ていた筈だが、その内容もあまり思い出せない。ぼんやりと夢を見ている実感だけが続き、いつものように依頼を受けて、指定されたポイントに行き、相棒のしつこい嫌みを聞き流しながら銃の手入れをする。そういう日常はすべて夢だったのだろうかと疑いたくなった。
 それだけ眼前の光景は非現実的で、夢と現実の境が分からなくなる。振り返ってみても、この場所に辿り着いた経緯がさっぱり分からなかった。確か俺は、ぼろアパートの中で死んだ筈だ。チンピラに刺されて、それで。
 記憶を辿りながら腹部に手をやるが、そこにもう覚悟していた痛みはない。それどころか、シャツをめくって確かめてみても、傷跡すら残っていなかった。本当に今までのことは夢だったのだろうか。そうだとしたら何処までが夢だったのか。それとも、ここにこうしていること自体が夢なのか―――思考が袋小路に至って頭痛がした。思わず額に手を遣り、ため息を吐く。
「何だコレ…」
「―――驚いたかい?」
 不意に声をかけられて身じろぎをした。声のした方に向き直ると、すぐ傍に癖毛の少年が立っている。動揺を悟られたら命取りである環境にいた習慣で、なんでもない風に装ってしまったが、本当のところは息が止まりそうなほど驚いていた。
 前兆も気配も何もなく、気がついたらそこにいたのだ。数秒前まで、確かにそこには誰もいなかった筈なのに。まさに『湧いて出た』というのが正しいように思う。書庫の頼りない灯りでは拾いづらいが、整った顔をした少年はその癖毛と相まって、幼い頃教会で見た天使様のようだ。鼓膜に触れた声も性別を感じさせず、高くも低くもない心地よい高さだった。何もかもが美しく、それだけに非現実感を際立たせる。そんな相手だ。
「バグを見つけて来てみたら、まさか君がいるなんてね! 僕も驚いたよ」
「え…」
 状態が呑み込めないまま、伸びてくる白い指に顎をとられる。向こうはこちらを知っているような口ぶりだが、こちらは彼にさっぱり覚えがない。この状況を聞こうにも、知らないことばかりで何から聞けばいいのかも分からず、深めた笑みの美しさにぼんやりと見とれるくらいしか出来ない。
 近くで眺めると、その美しさは格別だった。切れ長の赤い瞳はいつまでも見ていたいと思えるほど深みのある色合いをしていて、良くは分からないが、極上のワインや宝石はこんな感じなのかもしれないと思う。陶器のような白い肌と、そこに淡い陰を落とす長いまつげ。非の打ち所のないつくりに、教会の天使という第一印象がますます強まる。そうでなければ人の心を惑わす悪魔だ。彼の毒めいた笑い方はむしろそちらに近い。
「君は、誰だ?」
 顎に触れる指をとりながらようやく問いかけると、相手が目を丸くする。驚くと少し幼くみえ、そのときだけ僅かに人間らしいと思う。しかしそれも一瞬で終わり、また唇が笑みを取り戻した。
「本当に、何も知らないんだ?」
「そ。だから色々聞きたいんだが」
 笑いながら手の中にある彼の指の、先のまるみを無意識になぞる。ぼうっとしていた頭が徐々に冷えていくのを自覚した。相手の視線の動きや、仕草などを観察する、こんな非現実的な場所で裏を読もうとしても仕方がないのかもしれないが、それでも、唯でさえ情報が少ないのだからなるべく多くのものを引き出したい。
「教えないよ」
「…手厳しいな」
 しかし彼は少しも裏を読ませる気はないようで、握った手から指を抜いてゆるりと笑うだけだった。こちらが何も知らないという状況を、楽しんでいるようにも見えた。一方的に笑われているようで腹が立たないでもないが、見渡したところ、この書庫には彼以外の気配がない。
 やはり彼から情報を引き出す以外なさそうだ、と結論づけたそのときだった。
「リジェネ・レジェッタ!」
 その結論をひっくり返すように、また『存在が発生する』感覚があった。どこからかやってくるのではない。無かった場所から、存在するようになる。気配というものをまるで無視したルートで、少年の怒声が響き渡った。
 そこには、リジェネと呼ばれた癖毛の少年と全く同じ顔をした相手が立っていた。大きな違いといえば、彼はリジェネとは違い癖のないすんなりとした毛先をしている。リジェネがひどく楽しそうに笑っているのとは対照的に、苛立ちを隠そうともせず、端正な顔を歪めていた。
 しかしそうでなければ違いを見いだすのが難しいほどにうり二つだった。俺と双子の弟だってもう少し差異がある。兄弟だから似ている、というのではなく、そっくりそのままコピーしてきたような気味の悪い似方だ。
 思わず、まじましとその顔を眺めていると、リジェネと全く同じ色をしたガーネットの瞳とかち合う。どういう顔をしていいのか分からず、にへらと笑いかけてみるけれど、冷淡に視線を逸らされた。弄ばれる理由もなければ、嫌われる理由もないと思うのに。軽い落胆を覚えた。
 少年は、かつかつと靴音を響かせて俺とリジェネの間に立つ。こんな音がしたら普通は、書庫に入ってきたときに気づくだろう。やはりこの空間は何処か普通ではない。痛む筈の腹に手を当てても、やはり何もなかった。
「彼には会うなと言っておいた筈だが」
「……きみの言うことを聞く気はないよ。僕は僕でやらせてもらう」
 突然、会話の矛先が向けられて驚いた。先ほどまで機嫌良さそうに笑っていたリジェネの顔から不意に笑みが消え、場の空気が尖る。顔は同じなのにさして仲が良くはなさそうな印象だった。リジェネと全く同じかたちの、整った無表情を向けられて少し居心地の悪さを感じたが、駄目もとで問いかけてみる。どうあっても情報源は彼らしかないのだ。
「ここは何処なんだ? 天国か? 地獄か?」
「…どういう意味ですか」
 逆に問いかけられて、思わず目を見開く。こちらの方は話は通じそうだった。真面目な顔をして天国やら地獄やら言うのは抵抗があったが、現状を考えれば仕方がない。書庫にいるのはまだ理屈がつけられても、なまぬるく血の溢れた傷口を、俺はこの目で確かに見たのだ。
「俺は死んだ筈なんだよ……たぶん」
「……ッッ!!」
 そのとき。無表情だった相手が、あからさまに肩をふるわせて動揺したのを見た。何かを呟きかけてわなないた唇が、何度も音を紡ごうとしてはし損じている。リジェネとは違い硬質な印象を受けていたので、瞬く間の変化に戸惑った。死んだ人間が生き返る筈もないから、当然と言えば当然の態度かもしれないが。
 しかし、彼がなんとか絞り出した言葉は、全く俺の予想とは外れていた。
「僕を、覚えては…」
 眉を寄せて、弱々しく問いかける。先ほどまでの表情との差に戸惑ったが、それ以上にやはり相手はこちらを知っているのでは、という疑念が確信に近づいた。しかも彼の場合、リジェネのような突き放した態度とも違う。何か心当たりがあるのだろうか。この場所の謎も、俺がここにいる理由も、もしかしたら。
 しかし、肝心な問いかけにはイエスと答えられずにいた。記憶力は悪い方ではないと自負しているし、そうでなくともこんな整った顔立ちは忘れようとしても無理だろう。にも関わらず、思い当たる節は全くなかった。だからこそ、一方的に知られているようで薄気味悪い。
 おずおずとこちらを見つめ返してくる赤い瞳を、しばらくの間見つめていた。しかし、記憶の何処を漁っても何も拾い出せる気配がない。諦めて頭を振ると、リジェネが声を立てて笑った。
「残念だったね、ティエリア! 彼は覚えてないってさ」
「…黙っていろ」
 低い呟きと共に、ティエリアと呼ばれた彼の顔から弱々しい雰囲気が消える。きつくリジェネを睨みつけるが、リジェネは笑うのをやめない。それどころか、心底おかしくてたまらないという風にますます深くなっていくばかりで、そのたびにティエリアの眉間の皺が増えていく。思い出せない俺の立場では何も言えないが、気の毒にすら思えてきた。
「折角いとしのロックオンと会えたのに、本当に残念だ! かわいそうなティエリア。きみはやっぱり独りぼっちなんだよ」
「黙れと言っている!」
 怒鳴りつけるティエリアに、やわらかい笑みで返すリジェネ。その気まずい空気の中、俺は立ち尽くすしか出来なかった。ティエリアが問いかけた理由も、怒る理由も、リジェネが笑っている理由も、俺には何一つとして理解出来ない。分かるのは、俺がロックオンと呼ばれたことだけだ。俺の名前とは全く別のその名で呼ばれる理由もさっぱり見当がつかないが。あだ名のようなものだったのだろうか。
 ひとりだけ何も知らないというのは、これほど居心地の悪いものなのか。所在のなさを覚え、黙って本棚に背を預けてため息を吐く。独りであるよりはマシなのかもしれないが、あまりにも一方的で不利な立場に不安ばかりが増した。また無意識に、腹に手をやる。いっそあそこで本当に消えてしまえれば良かった。何も思い残すことなんてなかった、あんな世界。
 ―――また、瞼の裏に弟の姿が過ぎる。本当に俺は、つまらないものに執着してしまう。とっとと死んでしまえれば、良かった、のに。
「…ニール・ディランディ」
 思い浮かべた姿と、同じ姓を呼ばれて思わず顔を上げた。ここ数年来、使ってもいなかった名前だ。というより、捨てた筈の名前だった。自分の中の無防備な部分をなで上げられたような心地がして、思わず双眸を見開く。ティエリアが慎重に、言葉を選ぶように、その名を呼んだせいかもしれない。いつの間にか取り戻した無表情で、こちらへと歩み寄る。俺の頭頂部からつま先までをじっくり眺めた後に、言葉を続けた。
「あなたの言う通り、ここは天国と呼ばれる場所に近いかもしれない」
「…じゃあ、やっぱり俺は、」
「死んではいません。迷い込んだだけです。僕が、責任を持って元の場所に送り返します」
 きっぱりとした口調で断言された。こうして真っ直ぐに覗き込まれると、そこに意志の強さが宿っていることに気づかされる。非現実的過ぎるとか、あんな世界にもとより未練などないと茶化すのさえも忘れるほど、深い意志がそこには在った。
 ワインレッド、ガーネット。どうなぞらえても馴染むようでそぐわなかった赤い瞳の色は、そういえば血と同じ色をしているのだと思い至った。俺の腹からどうしようもなく溢れ出てきた、生きるための色だ。それを単純に、綺麗だと思った。リジェネと彼はとても良く似ていたが、その色だけはリジェネに感じることはなく、彼にしかないものだと思った。




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